学校の階段



 あなたは知っているだろうか。彼らが通う桐生高校に伝わる伝説を。

「で、その伝説って何なんですか?」
「お前知らねえの?遅れてるぜ」
「だからぁ、教えてくださいよ!」
「仕方ねえなあ。それはな……――」



 桐生高校の校舎は4階建てで、4階からさらに伸びた階段は屋上へと続く。屋上の扉には鍵がかかっており、一般の生徒が立ち入ることは禁止されている。なんでも30年ほど前、同級生からのいじめに耐えかねた女生徒が一人、屋上から飛び降りて自殺したらしい。それ以来屋上は閉ざされ、それと共に妙な噂が立ち始めた。「屋上からの階段を、自殺した女生徒が血だらけで下りてくる」
 同じく桐生高校の4階の踊り場には、一枚の絵が飾られている。まだ未完成であるが、不思議な魅力を持つ絵。この絵の作者は不明。未完成の、しかも作者のわからない絵が、なぜここに飾られているのだろうか。教師たちでさえ、その理由は知らない。ただなんとなく、この絵をここから動かすことは憚られるそうだ。動かそうとすると、とても奇妙な感覚に囚われるのだ、なぜかはわからないが、動かしてはいけない気がするのだと、ある教師は言っていた。



「ふーん、二つの伝説かー。でもなんで二つなんですか? 普通学校だったら七つなのに。学校の七不思議とか」
「知らねえよ。知りてえんなら自分で調べろ」
「坂下くん、夏川くん、伝説は二つじゃないのよ」

 部活終了後のほとんど人がいなくなった校舎内、執行部の部室には春子と海里、雅と岳の四人が残っていた。生徒会が夏のウォークラリー大会を企画しており、冬貴、明彦、睦月、小梅はポイントごとに設定する課題の資料集めを、春子たち四人はルート決めや地図の作成をしているのだ。作業をしながら学校の伝説を話し始めた海里と岳の話に突然割り込んだのは、意外にもこういった類の話が好物である雅だった。春子もこの学校の伝説は、先ほど海里が話していた二つしか知らない。雅の言葉に興味をそそられ、話に加わることにした。

「ねえ雅、二つじゃないってどういうこと? 他にもあるの?」
「ええ、そうよ」
「じゃあやっぱり、七不思議ですか?」
「いいえ、残念ながら七つじゃないの。さっきの二つを含めて八つよ」
「八つぅ? なんで八個もあるんだ? 中途半端だな。七不思議って言葉があるんだから、無理矢理にでも七つにするだろ、普通」
「それは普通ではなくてあなたの考えでしょう、坂下くん。そもそもこの八つの伝説が囁かれ始めた頃に「七不思議」という概念があったかどうかも疑わしいわ」
「それで、その八つの伝説って何があるの?」

 雅は淡々と説明を始めた。
 まずは放課後の女生徒。放課後遅くまで教室に残っていると突然女の子が現れ、探し物をしてほしいと頼んでくる。断ればその場で八つ裂きにされ、引き受ければ探すのを手伝っている間に異次元に迷い込んでしまうのだとか。そして過去に戻る時計。美術室に一人でいると、時計の針が逆回転を始めて過去に連れて行かれ、二度と戻ってくることができないらしい。それから中庭の松。この松の傍に、白いワンピースを着た5、6歳の女の子が佇んでいるのを見た人は要注意。その日から毎日、その女の子が夢に現れるそうだ。白いワンピースを真っ赤に染めて。その他、調理実習室の包丁がひとりでに動いて自分に向かって飛んでくる、保健室の二番目のベッドには時々、そのベッドの上で死んでしまった生徒の霊が横になっている、部活終了時刻を過ぎて少し経った頃、少年が両足から血を流しながら一人でサッカーをしている、という三つの不思議。それに先ほどの二つを加え、八つの不思議が出来上がる。

「怪談話ばっかりの中で、未完成の絵だけは異質だな。あれは怪談って言えねえだろ」
「ていうか雅先輩! 全部知っちゃったじゃないですか! 不幸が……不幸が!!」
「大丈夫よ夏川くん。それは七不思議の話。今話したのは八不思議よ。それに七不思議というのは単なる風説か、目の錯覚か、あるいは機械の故障によって起こったものとも考えられるの。いずれにしろ七つ全てが本当の不思議というわけではないし、実際に七つの不思議全てを知って不幸に見舞われたという人の話は聞いたことがないわ」
「じゃあもし俺に不幸が降りかかったら、雅先輩が責任取ってくださいね!」
「いいわ」
「じゃあ俺に不幸が降りかかった時もよろしく!」
「それは嫌よ」
「なんでだよ! また岳贔屓かよ。雅さんってほんと俺には冷たい」
「悪い?」
「……」

 そんな話をしているところに、冬貴と明彦が戻って来た。睦月と小梅はどうしたのかと雅が尋ねると、必要な資料のコピーを取ってもらっていると明彦が答えた。冬貴は何か急用ができたらしく、荷物をまとめると「みんなも帰っていいよ」と言ってさっさと帰って行った。その言葉を受け、明彦は春子と海里、岳を順番に見る。

「俺と雅は氷堂と時枝が戻って来るまで待っているから、お前たちは先に帰っていいぞ」
「いや、待て。まだ話が終わってねえ。栗山、お前先に帰れ。睦月たちは俺たちが待ってるから。雅さん、続き話して」
「先に帰ることはできない。雅を送らなければならないからな」
「じゃあ栗山先輩も一緒に聞きます? 桐生高校の七不思議」
「桐生高校の七不思議? 何だそれは」

 雅は聞かない方がいいと言ったが、明彦は気になって仕方がないようで、なんだなんだとしつこく食い下がる。やれやれといった様子でため息をつくと、雅は丁寧に、先ほどと一字一句違わずに説明をした。その説明を聞きながら、明彦の顔が次第に青ざめていく。

「どうしたの栗山くん。顔色悪いよ」
「あれぇほんとだ。歯もかみ合ってないですよ。そんなに怖かったんですか?」
「な、なんだと! 何が怖いだ! そそそんなわけがないだろう! たかがで、伝説じゃないか! くだらない!」
「そうだよなー。栗山にはつまんねえ話だよな。だからもう今日は帰れよ。お前だって暇じゃねえだろ」
「だめだ! 俺は雅を家まで送らなければならないと言っただろう!」
「私なら平気よ。小梅には氷堂くんがいるし、春子は夏川くんが送ってくれるだろうから、私は坂下くんに送ってもらうわ」
「そうそう、雅さんは俺が責任持って送るから」

 明彦はオロオロと目を泳がせた後、助けを求めるように雅を見た。その視線を受けた雅は無言のまま微笑み、隣の椅子を軽くたたく。明彦はのそのそと歩き、その椅子に腰を下ろした。
 雅は再び、八不思議について語り出した。そもそも七不思議というのは、七つ目を知ったときに不幸が訪れる、という伝説と共に怪談が少しずつ増え、さらに他学校のものも自分の学校の中に取り入れたりして、結果的に七つでは収まらなくなってしまうものなのだと。桐生高校も例に漏れずすでに八つ存在している。まだ他にもあるかもしれないと海里は言ったが、雅の話によると、この学校の不思議話はこの八つしか存在しないようだ。

「本当に八つだけなのか?」
「ええ、確かよ。教師や生徒にもいろいろと聞いてみたんだけれど、この八つ以外の話は出てこなかったの。記録も残っていないわ。それにこの学校の八つの不思議は全て、オリジナルのものみたいなの。つまり、初めから桐生高校にあった話だけで八つ、他の学校から取り入れた話は一つもないということよ」
「不幸が起こるかもしれないのに、わざわざ全部調べたのか? それ、不幸に向かって歩いて行ってるようなもんだぞ」
「でも全てオリジナルって、結構特殊なんじゃない?」
「そうでしょうね。他校の七不思議に対して閉鎖的であるのもそうと言えるし、数の点でもそう。七不思議は学校によっては存在しないところもあるけれど、大抵どこの学校に行っても存在しているし、その数は最低十はあるわ。七つより一つしか多くないというのは、珍しいことね」
「でもうちの学校の怪談は、他のとこのと違って、調べようと思えば調べられますよね。「真夜中」とかいうのがないから。全部生徒たちがまだ学校にいる時間帯の話じゃないですか」
「そうだよな。そういう点では現実的だ」
「だけど放課後女生徒が探し物を頼んでくるやつと時計のやつはなんか両方とも神隠しみたいで似てるし、血だらけの幽霊の話も二つあるし、もっとひとつひとつに個性がほしいです」
「そんなこと、私に言われても困るわ」

 そんな話をおもしろがってしている四人とは対照的に、明彦は椅子の上に縮こまってガタガタと震えていた。顔は依然青く、血の気が失せている。雅は明彦の様子を見て、これ以上この状況に明彦を置いておくのはあまりに酷だと思ったのだろう。「さあ、そろそろ終わりにして帰りましょう」と、海里と岳に向かって言った。

「えーもう少し聞きたいです。雅先輩まだいろいろ知ってるんでしょ?」
「そうだぜ、雅さん。知ってること全部話してよ」
「私が知っていることは全て話したわ。まだ知りたいことがあるのなら個人で調べてちょうだい」
「めんどくせえだろ」
「俺、一人で調べるのなんて嫌ですよ。 春子先輩、一緒に調べましょうよ」
「は?なんで私? 嫌だよ」

 と、春子が言ったその時だ。部室のドアが、勢いよく開かれたのは。

「ぎゃああぁぁぁ!」
「おぅっ、なんだ」

 入って来たのは睦月と小梅だった。ちなみに、先ほどの奇声は明彦のものだ。叫んだ直後、隣に座っていた雅にしがみついた。そんな明彦の大声に驚いたのか、小梅は持っていた資料をばさばさと床に撒き散らし、睦月の制服の裾をぎゅっとつかんで固まっている。

「明彦、大丈夫よ。氷堂くんと小梅が戻って来ただけだから」
「ひ、ひひひ、ひ、ひ氷堂!? 誰だ!」
「だから、氷堂くん」
「俺を忘れたのか? わりと長い付き合いなのに。ひどいな、栗山は」

 明彦は、たとえ一瞬でも睦月を認識できないほど驚いたようだ。大きな図体を極限まで縮めて雅にくっついている。睦月は心外だという顔をして明彦を見つめているが、目だけはおもしろいものを見つけたように笑っている。そして我に返った小梅が落とした資料を拾い始めると、それを手伝いながら小梅の頭をぽんぽんと優しくたたいた。ぼっと顔を赤くしてうつむいた小梅を、春子は少し心配そうに眺める。本当にこの男でいいのだろうかと。

「何をしてたんだ?」
「桐生高校の八不思議について話してたんですよ」
「八不思議? 七不思議じゃなくてか?」
「うちの学校には八つあるらしいぜ」
「へえ、階段の少女の話もそうなのか?」

 どうやら睦月もこの話に興味があるようだ。聞きたそうではあるが、小梅を気にしている。小梅はいかにもこういった話が苦手そうではあるが、自分を気遣う睦月に気がついたのか「私も聞きたいです」と若干不安そうに言った。

「無理はしなくていいぞ。聞きたくないなら帰ろう」
「平気です」
「じゃあ、怖くなったらすぐに言えよ」
「はい」

 二人のやり取りを見た海里と岳は、お互いに妙な顔をして目配せした。おそらく、聞き慣れない睦月の甘い声に気分が悪くなったのだろう。睦月と小梅が話に加わることになったので、雅はまた説明を始めた。これで春子たちがこの話を聞くのは三度目だ。明彦はとうとう耳をふさいでしまった。

「と、これで八つよ」
「ん? 待て。それじゃ七つだろ」
「どういうこと?」
「階段の少女と踊り場の絵は同じ話じゃないのか?」
「えっ? なんでその二つが同じ話になるの? まったく別の話じゃん」

 春子が口にした疑問に、海里と岳もうんうんとうなずく。雅は首を傾げていた。
 睦月の言い分は、こうだ。踊り場に飾られている絵はある少女が描いていた絵で、それは当時4階の踊り場から外を見た時の風景を描写したものらしい。そしてその絵が完成したら、少女が絵を描いていたその場所に飾ろうと、美術の教師は約束した。だが少女は、その絵が完成しないうちに死んでしまった。屋上から飛び降りて。絵は未完成だったが、美術教師は約束通り、その絵を4階の踊り場に飾った。それから毎日、少女はいつも絵を描いていた時間に、いつも絵を描いていた場所へと、屋上から下りてくるようになったのだそうだ。

「そんな情報、どこから手に入れたの? 私はいろいろと調べたけれど、そんな事実はどこにも記されていなかったわ」
「俺がこの話を知ったのは、昔の学校新聞だ」
「学校新聞? 私も学校新聞は見てみたのよ。でもこの話の記事はなかった」
「学校新聞は興味深い記事が満載だからな。古いものから見て行っておもしろい記事を見つけた時に、じっくり読もうと思ってちょっと借りていたんだ。それからちょくちょくその後の新聞を読む間にもいくつか関係のある記事が出てきて、これも借りた。それがこの話だ。新聞を返すのを忘れてたな。そういえば鞄の中に入れっぱなしだ」

 睦月は鞄を取ってくると、中をごそごそと漁り始めた。そして三枚の色褪せた古い紙を取り出すと、それを近くのテーブルの上に置く。

「見てみろ」

 春子たちは新聞が置かれたテーブルに近付く。明彦も両手で耳をふさいだまま、急いで立ち上がった。
 新聞の、日付が古い順に見ていく。
 一枚目、「特集」と書かれた部分に、女の子の顔写真が載っていた。絵画コンクールで入賞したことが取り上げられているようだ。そして校内に飾る絵を、この少女が制作中ということも書かれていた。
 二枚目、その記事は一人の少女の自殺を告げるものだった。この記事に載せられていた少女の名前は、先ほどの新聞に載っていたものと同じ。
 三枚目、少女が描いた未完成の絵を4階踊り場に飾ってから、屋上へ続く階段と4階の踊り場で、血だらけの少女を目撃したと言う生徒が多数出てきたことが書かれていた。

「確かにこの記事を読むと二つの話が繋がるわね」
「そうだろ?」
「けれど教師たちも知らないというのは少々おかしくはない?」
「30年も前の話だ。あの頃この学校に勤めていた教師は、今はいないだろ。それに、残っている学校新聞を全て読むような、俺みたいな物好きがいるとも思えない」
「ねえ、待ってよ。もしこの二つの話が一つになるなら、不思議は八つじゃなくて七つになるってことだよね?」
「七不思議だ……雅先輩! 全部桐生オリジナルなんでしょ!? 正真正銘の七不思議じゃないですか!」
「そのようね」
「いやー! 俺まだ死にたくないですよぉぉおお! 先輩責任取ってくれるって言いましたよね!? 俺を守ってっ!」

 今度は岳が、先ほどの明彦のように雅にしがみついた。そんな岳を、明彦は反射的に雅から引き剥がす。そしてすぐにまた耳をふさいだ。海里は新聞を自分のもとに引き寄せて、じっと見つめている。その新聞を遠慮がちにのぞき込む小梅は、少々怯えているようだ。けれど雅と睦月は至って冷静だった。二人とも、涼しげな顔をしている。

「実に興味深いけれど、おそらくただの偶然ね。この中の一つとして、実際に体験した、あるいは見たという証言は得られていないもの」
「いや、一つは証明されてるだろ。この新聞で」

 睦月が指差したのは、海里と小梅が真剣に読んでいた三枚の新聞の中の一枚だった。確かにこの記事は、多数の生徒の「血だらけの少女目撃」情報に基づいて書かれたものだ。

「でもこれが真実かどうかは判断できないでしょう。新聞部が勝手に作り上げた話かもしれないし」
「まあ、それはそうだが。しかし参考にはなる。さっき言っていた八つ、いや、七つの話のうちどれか一つでも証明されれば、七不思議もより真実味を帯びる」
「そうね。調べるとすれば、もしものことがあった時のことを考えて一番害の無さそうなものがいいわね」
「しし調べるんですか!? えっ、本気? ていうか、先輩たち正気?」
「その方が夏川くんも安心できるでしょう。不幸を恐れずにすむわよ」
「誰が調べるの?」
「松本、お前調べてみないか?」
「私嫌だよ。雅か氷堂だよね、調べるなら」
「俺だって嫌だ。怖いし」
「嘘つくな。全然怖そうじゃない。笑ってるじゃん。じゃあ二人で調べればいいでしょ」
「そうね。じゃあ、何を調べる?」

 雅の問いかけに、睦月は「そうだな……」と考える素振りを見せた。

「一番無害そうというより、一番見てみたいのはやっぱり階段の幽霊だ」
「確かに私も、その話は気になってるの」
「じゃあ今度秋月の部活がない日にでも、放課後残って調べてみるか。ああ、そうしたら探し物の女が出てくるんだったか?」
「いいえ、彼女が出るのは教室に残っていた場合」
「それなら大丈夫だな」

 雅と睦月が淡々と話を進めている様子を、他の全員が「ありえない」という表情で見つめる。新事実が発覚した今、これほど冷静でいられるというのは頭がどうかしてるとしか思えないのだ。二人とも授業の調べものをするような感覚で話している。

「調べた結果はまた報告するわ。今日はこれでおしまいにしましょう」

 そう言った雅は、いまだ耳をふさいだままの明彦に向かって微笑んだ。それに安心したのか、明彦はほっと息をつき、きつく耳に押し当てていた手をゆっくりと離した。睦月は小梅に「大丈夫か」と問いかけている。小梅はその問いにうなずくのがやっとのようだ。
 のろのろと帰り支度をし、窓が閉まっているのを確認して、春子たちは部室を出た。明彦は手が震えていて生徒会室の鍵をうまく閉められなかったので、雅が鍵を奪い取ってきっちりと閉めた。
 外の空気は、夏にしてはひんやりと冷たかった。屋外プールの横を通り、校門を目指して校舎とグラウンドの間を抜ける。その時、グラウンドから、誰かが走る音が聞こえてきた。それと共に、ボールを蹴るような音も。グラウンドはフェンスで囲まれ、しかもこちら側には高い木が数本植えられているため、中がよく見えない。

「あれ、まだ誰か残ってるんだね。サッカー部かな」
「熱心ですねぇ、一人で練習なん、て……」

 そう、走る足音は一人分。その他にはまったく聞こえてこないのだ。今、ここにいる全員が、ある一つのことに思い至ったに違いない。

「なあ……血を流しながらサッカーしてる男って、いつ頃出るんだっけ……?」
「部活終了時刻の少し後よ」
「じ、じゃあ違うだろ。もう部活終了時刻過ぎてかなり経ってるし……」
「で、でも、その時間からいつまでサッカーやってるかは誰にも、わからない、でしょ」
「……」

 しばらくの沈黙の後、何の前触れもなくいきなり走り始めたのは岳だった。春子もそれにつられて足を動かす。その直後、背後で海里の叫び声が聞こえた。

「ぎゃあー! 栗山てめえ! 放せぇー! 動けねえだろ! このバカ!」

 明彦につかまってしまったらしい。春子が気になって振り返ると、ちょうど雅が明彦を、海里から引き剥がしたところだった。解放された瞬間、海里は全速力で校門に向かって走り出した。雅と睦月、そして睦月に手を引かれている小梅もそれに続く。ところが明彦が動かない。

「雅ぃいい! 置いていかないでくれ!」

 動かないのではなく、動けなかったようだ。雅はすぐさま明彦のところへ引き返し、明彦の手を取ると、思いっきり引っぱった。それと同時に明彦の足は動き出し、雅の手をしっかりとにぎったまま、超人的なスピードであっという間に春子の横を走り抜けて行った。一瞬ボケッとその姿を見送った春子であるが、自分の後ろにはもう誰もいないことに気付くと慌てて再び走り出した。
 その後はもう皆、無我夢中だった。後ろを振り向けば何かがいるようで、何かが追いかけてきているようで、そうすることができなかった。ただただ心の底から湧き起こる恐怖心から逃れるように、必死に走ったのだった。
 結局、あれが本当に足から血を流しながらサッカーをする少年だったのかを確かめる術はなく、それは誰にもわからない。



 それ以来、あの場にいた全員が七不思議の話題を口にすることをやめた。事情を知らない冬貴が一度話を持ち出したことがあるが、誰もが七不思議など存在しないかのように振舞ったため、冬貴もすぐに興味をなくしてしまったようだ。
 しかし春子は、少し気になっていることがあった。雅と睦月は階段の少女のことを調べたのだろうか。少々恐怖心を抱きながらも、春子は結果を聞いてみることにした。まず睦月に聞いてみたところ、「結局調べてないんだ。悪いな」という返答があった。次に雅に聞いて返ってきた答えは、「何も出なかったわよ」だった。
 春子は、二人の答えが食い違っていることに違和感を覚えずにはいられなかった。あの出来事の後だから、雅が一人で調べに行ったとも考えにくい。そうなると、出てくる答えは二つ。どちらかが嘘をついているか、あるいは、どちらともが嘘をついているか。いずれにしろ、真実を知るのは雅と睦月の二人だけだ。
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