執行部の日常



 桜の花びらが舞い散る中、期待と不安を胸に、少女は校門をくぐった。
 どんな出会いが待っているのだろう。仲のいい友達はできるだろうか。もしかしたら、素敵な恋人ができるかもしれない。
 この時の少女は、自分の未来が全く想像できない方向へと動いていくことを、考えてもみなかっただろう。
 松本まつもと春子はるこ、15歳の春のことである。



「ちょっと、何この書類の山」

 あれから2年、春子は17歳、桐生きりゅう高校の3年生になっていた。思えばこの2年間、春子は高校生らしい甘酸っぱい青春というものを経験したことなど一度もない。ただの一度も。代わりに春子が過ごしてきた日々は、春子自身納得できないことが多く、わけのわからぬ要求だらけのものだった。それでも、その生活が楽しくなかったわけではない。目の前で秀麗な笑みを浮かべる男も、隣でいびきをかいている後輩も、山積みの書類も、そんな日常の中に組み込まれてしまっているのだ。

「それは新入生に渡す資料だよ。年間行事のこととか部活のこととか。ほら、俺たちも歓迎遠足でもらっただろ。覚えてない?3枚1組にまとめないといけないんだ」
「で、それがなぜここに?」

 春子の前に立つ男、武田たけだ冬貴ふゆきは、春子の問いには答えずにただ微笑んでいる。春子にはこの笑顔の意味がわかっていた。「やれ」という無言の命令である。

「仕方ないなー」

 ため息をついた春子を見て、冬貴はさらに笑顔を輝かせた。

「ありがとう、春子。こんな仕事を部活でさせるのはみんなに申し訳ないんだけど、生徒会のみんなもそれぞれの部活で忙しいし、できる雑用はなるべくここで片付けたいんだ」
「別にいいけどね。『執行部』っていうご立派な名前がついてるけど、実際は『雑務を執行する部活』だし」

 桐生高校では部活動が義務付けられている。生徒は全員何かしらの部活動に所属しなければならないのだ。春子が所属する執行部は、冬貴が1年生の時に作った部である。生徒や教師からは「雑用係」と呼ばれて都合よくいろいろな仕事を押し付けられるため、入部希望者はめったにいない。入部してくる者は、どうしても他の部活には入りたくない者や、途中で部活を退部し行き場のなくなった者たちばかり。
 現在執行部副部長を務める春子は入学当初、マネージャーとして野球部に入部するつもりであった。希望に胸を膨らませて入部届けを持って行った先で春子を待っていたのは、申し訳なさそうに笑う野球部主将。新入生の入部希望者は全て断っているという彼の言葉に、春子は絶望した。
 そんな幸先の悪いスタートを切った春子に声をかけてきたのが冬貴である。一緒に部を作らないかという提案をしてきた冬貴に、春子は疑問を投げかけずにはいられなかった。なぜ私に、と。というのも、当時二人はクラスメイトではあったものの、ほとんど話もしたことがなかったからである。結局納得できる理由など一つも聞かされぬまま、ほぼ強制的に、春子は執行部に入部することになった。最初は不満もあったが、どうせ野球部に入れないのならどの部活に入っても同じだろうと思うと、すぐに諦めもついた。
 春子の他に、執行部の部員は5人。生徒会長兼執行部部長の武田冬貴、春子の隣で気持ち良さそうに眠っている2年の夏川なつかわたける。その他まだ部室に来ていない、3年の氷堂ひどう睦月むつき坂下さかした海里かいり、2年の時枝ときえだ小梅こうめである。そして部員の他にも、執行部の部室に入り浸る者がいる。生徒会副会長の秋月あきづきみやびと、同じく副会長の栗山くりやま明彦あきひこだ。それゆえ執行部の部室には、部員用の椅子5脚に加え雅と明彦用の椅子が用意されている。この二人が執行部に顔を出すようになったのは、やはり冬貴の存在があるからであろう。
 冬貴が生徒会長になってからというもの、執行部もずいぶん様変わりをした。部室が移動し、活動内容も徐々に変化していった。元々部室はほとんど使われていない物置のような教室だったが、それが今では生徒会室横のそこそこ綺麗な資料室に移り。教師の手伝いや他の部活の雑用を主として活動していたが、今では仕事の6割が生徒会の手伝いとなり。新入生の中には、執行部を「生徒会執行部」であり、部活動ではないと勘違いしている者も多い。

「あら、坂下くんたちはまだ来てないのね」
「坂下はいつものことだ。氷堂と時枝がいないのは珍しいことだが」

 いつものようにやって来た雅と明彦が、いつものように椅子に腰を下ろしながら話す。まったく全校生徒のトップにいる者たちがこんな調子でいいのか、と春子は思う。冬貴も口では「忙しい」というものの、本当に忙しそうにしているところなど見たことがない。

「氷堂は知らないけど、小梅はクラスの用事で先生に呼ばれてるから遅くなるんだって。岳が言ってた」

 春子が言うと、冬貴たち3人の視線が岳に集まる。その視線を受けた岳は、眠っているにもかかわらず居心地が悪そうに唸り、身じろぎした。再び岳がいびきをかき始めると、明彦は短くため息をつく。

「岳はいつもこうだな」
「授業中もこんな感じなんだって。小梅も宿題写させてあげたりノート貸してあげたり大変だよな。ま、こんな岳でも仕事はちゃんと手伝ってくれるからいいんだけどね」
「よくはないだろう。学生の本分は勉強だ」
「小梅もこんなクラスメイト、迷惑でしかないでしょうね」
「睦月も言ってたよ。小梅をこんなやつと同じクラスになんていさせられないって」

 散々な言われようである。春子は机に突っ伏して眠り続ける岳をちらりと見やり、苦笑した。
 岳はどうしようもないダメ男である。それは確かだ。執行部に入部したのも、岳の意思ではない。元々サッカー部に所属していたが、入部早々顧問と衝突してたった1日で退部し、他のどの部活にも入ろうとしない岳に困った担任が、岳を無理矢理執行部に入部させたのである。最初は執行部内でも悩みの種となり、春子や冬貴も苦労をした。けれどそんな岳も今ではすっかりおとなしくなり、みんなの可愛い後輩ポジションに落ち着いている。こうしていろいろ言いはするが、それも岳への愛ゆえなのだ。

「そういえば、氷堂が武田に提案したいことがあるって言ってたよ。今度の歓迎遠足のレクリエーションのことだって」
「睦月が? どうせ出席番号で縦割りして何かしようって言うんだろ。今年は睦月と小梅、出席番号が一緒らしいもんな」
「学年が違うから縦割りでもして行動しないと、部活以外で一緒に何かする機会なんてないものね。氷堂くんも生徒会の仕事に口を出してまで小梅と一緒にいたいのね」
「だが、時枝は氷堂が本気だとは思っていないようだぞ。からかわれているだけだと以前言っていた」
「誰かさんと同じくらい鈍いのね。氷堂くんも大変だわ」

 誰の話だ、と問う明彦に涼しげな視線を向け、雅は意味ありげに微笑んだ。その微笑の意味がわからない明彦は、戸惑うように春子と冬貴を見る。が、二人とも答えようとはせずそれぞれ異なる表情を浮かべた。冬貴は雅と同じ笑みを、春子は困ったような苦い笑みを。
 雅と明彦は幼馴染みである。家は隣で親同士も仲がよく、生まれた日は一日違い。幼稚園から高校までずっと同じ学校に通い二人一緒にいることがあまりにも自然なため、執行部と生徒会の人間、彼らの親しい友人以外は二人が恋人同士であると思っている。それも当然といえば当然のことで、朝は仲良く登校し、昼はそろって昼食をとり、お互い所属する部活動が違うにもかかわらず下校も一緒。雅は書道部に所属し明彦は剣道部の主将を務めているが、早く終わった方が相手の部活に顔を出すのも当たり前のことになっていた。二人ともがお互いに幼馴染み以上の感情を持っていることが周囲から見ればはっきりわかってしまうのは、雅が自身の感情を理解した上でそれを隠そうとせず、明彦が無自覚ゆえ雅への好意を開けっ広げに生活しているからである。

「今俺の名前が聞こえた」

 ガラリとドアが開き、ちょうど話題になっていた男が姿を見せた。隣には小柄で華奢な少女が遠慮がちに立ち、彼女が「こんにちは」とやわらかく微笑むと部室内がピンク色の空気に包まれる。「でもやっぱり氷堂くんにはあげられないわ。もったいないもの」という雅の言葉に、岳以外の者がうんうんとうなずいた。

「もったいないとは失礼な。お似合いだろ、俺たち」

 飄々たる態度で部室内に足を踏み入れる睦月の後を、状況をいまいち飲み込めていない様子の小梅がちょこちょことついて来る。そんな小梅をちらりと見やり、睦月は目を細めて薄く笑んだ。
 睦月は元々執行部の部員である。とらえどころがなくいいかげんでどこか信用できない男であるが、なぜか周囲に敬遠されることがほとんどない。それどころか逆に彼の周りには人が集まってくるのである。執行部の面々と雅、明彦は不思議に思いながらも、心の片隅ではその不可思議な現象を理解し得心してしまっているのだった。
 そんな睦月が半年ほど前に執行部につれて来たのが小梅である。詳しいことは一切話さず「こいつ入部するから」とだけ言って睦月は小梅の入部届を冬貴に手渡した。何かを察したらしい冬貴は黙ってその入部届を受け取り、小梅はその日から執行部の一員となったのである。

「ねえ、なんで小梅と氷堂が一緒なの? 小梅は先生に呼ばれてたんでしょ?」

 ふと浮かんだ疑問を春子が口にすると、睦月はああ、と言って小梅を見た。

「ここに来る途中で小梅が職員室に入って行くのが見えたんだよ。だから出てくるの待ってた」
「ストーカーじみてるわ。氷堂くん、あなた今すぐ小梅から離れなさい」

 穏やかな笑みとは裏腹な棘を含んだ言葉を、雅は睦月に投げつける。睦月は大げさに怯えた素振りをしてみせたが、小梅の傍を離れようとはしなかった。軽く睨み合う二人を見て困った小梅は、話題を変えようと慌てて口を開いた。

「あ、あの、職員室で坂下先輩に会いました。補習があるから少し遅くなるそうです。すぐ来るって言ってましたけど……」
「武田、いいかげん真面目にやれと坂下に注意しなくていいのか? お前たちも迷惑を被ってばかりで困るだろう」
「いつものことだから気にはしないよ。海里にかけられる迷惑は日常になってるから、最近迷惑を迷惑と思えなくなっちゃってるんだよね」

 海里も睦月と同じくいいかげんな男であるが、楽天的で人懐こいため付き合いやすいらしく友人も多い。周りに一切遠慮などしない自己中心的な困り者でもあるが、執行部内では岳とともに部を明るくするムードメーカー的存在とも言える。
 この問題児二人を本気で心配するのは執行部員ではない明彦であるが、その明彦を尻目に執行部部長は暢気なものである。

「なあ、今誰か俺の悪口言ってただろ」

 開いたドアからひょこりと姿を現したのは、当の海里であった。お前ら俺のいない所ではすぐ俺の悪口言うもんな、と卑屈なことを言うわりに、別段それを気にした様子もなく大きなあくびをする。

「別に悪口言ってたわけじゃないよ」
「お前ら岳の悪口は言わねえくせに、俺の悪口はすぐ言うから」
「岳は悪口言うと泣いちゃうからな」
「なあ冬貴くん、それって俺の悪口言ってること肯定してね?」

 さあ、と冬貴が首を傾げる横で、雅が静かに立ち上がった。

「そろそろ私たちは部活に行かせてもらうわ。武田くん、後は任せていいかしら」
「わかった。部活がんばってね」
「ありがとう。行きましょう、明彦」
「ああ。では、頼んだぞ」

 一体何をしに来たんだと思ったがあえて口には出さず、春子は雅と明彦を見送った。部室のドアが閉まり、じゃあ始めようかという言葉とともに冬貴が寝ている岳の背中を強く叩く。ぐぇっという奇妙な声を発した後はっと顔を上げた岳を見て春子はため息をつき、海里はえーという不満の声を漏らし、はいっとやる気満々の返事をした小梅を、睦月が優しげな笑みを湛えて無言で眺める。

 これが、彼らの日常である。
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