花舞小枝 -1-



 大学生活の半分を終え、迎えた新しい春。青凛学園大学のキャンパスを彩るのは、薄桃色の花をたくさんつけた数十本のソメイヨシノの木。暖かい風が吹き抜ける木陰のベンチに座って、私は買ったばかりの新しい本を開いた。小さな文字でびっしりと埋め尽くされたページをパラパラとめくっていると、ある文章が目に留まった。

 ”Mich liebt!--und wie wert ich mir selbst werde, wie ich--dir darf ich's wohl sagen, du hast Sinn für so etwas--wie ich mich selbst anbete, seitdem sie mich liebt”

 『あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう』
 初めてこの言葉を目にした時は、衝撃を受けた。それと同時に納得もした。ああ、そういうことなのだと。
 私を愛してくれた彼は、私のことを必要としてくれた。自分にとって不可欠な存在なのだと言ってくれた。愛する彼にとって価値のあるものは、私にとっても同様に価値あるものだったのだ。
 人生初の恋人が彼だった。正確には、最初で唯一。彼と別れてから、彼を忘れるために他の誰かを好きになろうとしたけれど、それは彼を忘れることと同じくらい難しかった。だから、今はもう諦めている。
 出会ってすぐ彼に泣かされた私は、初めは彼のことが大嫌いだった。それが、いったいどうして。こうして普通に生活していても、いつ何が起こるかなんて、本当にわからないものだ。
 ぱたんと本を閉じて目をつぶると、木々が風に揺れる音や、小さな噴水から噴き上げられる水の音が心地よく鼓膜を揺らす。こうしていると、なんとなく別の世界にいるような、ふわふわした不思議な感覚を覚える。

「あ、いたいた。さくらー!」

 遠くで聞こえた私を呼ぶ声に目を開けると、こちらに向かって走る友人の姿が見えた。立ち上がって手を振ると、彼女も大きく手を振って再度私の名前を呼ぶ。
 数秒で私のいる木陰に到着した彼女――広川洋子ちゃんは、膝に手をついて大きく息をしている。彼女が勢いよく体を起こすと、ショートカットの髪からふわりといい香りが漂った。

「もう! 『木陰のベンチ』だけじゃわからないよ。ていうか、キャンパス内にこんな公園があったことも知らないし。あちこち探しちゃった」
「ごめんね。同じ学科の人にはそれだけで伝わるから、つい」
「川嶋くんもわかんないと思うから、メールしとくね」
「うん」

 いつもはキャンパス内のカフェで待ち合わせをするのだけれど、なぜか今日は人が多くて座れる席がなかったので、仕方なく外に出た。「カフェはいっぱいで座れなかった。天気がいいから木陰のベンチで待ってる」というメールを友人二人に送って。
 青凛学園大学は広大な敷地を有しており、私たち文系学部生が通うキャンパスの他に、道路を挟んで向かい側の理系学部生が通うキャンパス、バスで二十分ほどの場所に医学部附属病院、そのすぐ隣には医学部、歯学部の講義棟がある。
 その中でも文系キャンパスは一番面積が狭いのに、それでも自分の使用する校舎とその付近、その他よく行く場所以外はほとんどわからないし、迷ってしまう。
 洋子ちゃんと私は、学部こそ同じではあるけれど、在籍する学科が異なるため利用する校舎は違う。文学部が利用するのは西館と南館。洋子ちゃんが所属する国文学科は西館、私が所属するドイツ文学科は南館で講義が行なわれる。そして私の憩いの場であるこの公園は、南館裏にひっそりと存在している。ここのことを知っているのは、ほぼ南館で講義を受ける学生だけだ。
 もう一人の友人、川嶋要くんは外国語学部に在籍している。外国語学部が利用する北館は他の校舎からは少し離れた場所にあり、門や駐輪場、駐車場は北館利用者用として別に設置されている。そのため北館を利用する学生たちが南館付近まで来ることはめったにない。多くの学生の行動範囲は、西館横にあるカフェと東館横にある食堂、中央校舎と並んで建つ図書館にまでしか及ばないため、川嶋くんがこの小さな公園を知っている可能性はほぼゼロだ。

「ここ、すごく気持ちいいところだね」
「そうでしょ? 夏は人が多くなるからあんまり来ないんだけど、春と秋はよく来てる」
「昼寝には最適だよね」
「私は寝たりしないよ」

 とは言ったけれど、今日のような天気のいい暖かい日は、ついうとうとしてしまうのも事実だった。今度寝に来るから膝枕して、と言って、洋子ちゃんはケラケラ笑う。
 先ほどまで私が座っていたベンチに二人で腰を下ろし、前期の時間割について話をした。文学部共通で選択制の講義がいくつかあるため、どの授業に興味があるか、どの先生が好きかを話しながら選択する授業を絞っていく。ある程度決まったところで、洋子ちゃんは私が手に持っている本に目を留めた。

「それってテキスト? 何の授業で使うの?」

 ゲーテの『若きウェルテルの悩み』
 一年を通じてあるドイツ文学演習の授業で使うテキストだ。日本語では読んだことがあるけれど、原文で読むのは初めて。
 洋子ちゃんが手を差し出したので本を渡すと、彼女は一ページ目を開いただけで眉間にしわを寄せた。

「こんなのよく読むね。なんでドイツ文学なんて……」

 はっとしたように口を手で押さえた彼女に笑いかけた。私がこの学科を選んだ本当の理由は誰にも言っていないけれど、洋子ちゃんや川嶋くんは気づいている。
 ドイツへ行ってしまった彼と、共有できる何かがほしかったのだ。誰もが一度は名前を聞いたことがあるゲーテの他に、ヘッセやカフカの作品も好きだと彼は言った。そういった作品を原文で読むことができるようになれば、彼と同じ世界に身を置けるのではないか。少しでも彼を近くに感じることができるのではないか。
 大学進学前に彼と別れてしまっていたら、きっと別の道を進んでいた。彼を忘れるために。今はいろんな作品を読むたびに彼を思い出してしまうけれど、それでもドイツ文学を選んでよかったと思っている。純粋に、文学作品を読むことを楽しめているから。

「でも私は、川嶋くんがフランス語学科選んだことがびっくりだった」

 洋子ちゃんが気まずそうに口を閉じてしまったので話題を変えると、彼女はほっとしたような笑顔を見せてうなずいた。私もびっくりしたよ、と。
 川嶋くんは、高等部で第二外国語として選択したフランス語がよほどおもしろかったらしい。最初は「わからない、つまらない」しか言っていなかったのに、三年生になる頃には日常会話程度のフランス語が話せるようになっていた。たった一人で二週間のフランス旅行にも行ったくらいだ。

「私なんて、何の考えもなく国文学科だよ」
「でもそのおかげで気づけたんでしょ?」
「そう! そうなのよ!」

 洋子ちゃんは、大学生になって初めて知った芥川龍之介の魅力について目を輝かせて話し始めた。高校生の時に授業で読んだ『羅生門』は二度と読みたくないと思うほど退屈な作品だったそうだが、大学生になって再び読んでみるとまったく別の作品のように感じたらしい。授業が必修で嫌でも受けなければならなかったからよかったけれど、選択の授業だったら、今でも作品の魅力に気づけていなかったところだ。

「やっぱり専門の先生の授業って違うよねえ。……あ!」

 何かに気づいたらしい洋子ちゃんが見ている方向に目をやると、川嶋くんがゆっくりと歩いて来るのが見えた。肩から提げている鞄は重そうに膨らんでいる。

「ごめん、図書館出たあと迷ってた」
「さくらのあのメールじゃ迷うよ。私もわかんなかった」
「ごめんなさい……」

 頭を下げると、二人は笑った。
 今日の目的地を決めてから、三人で並んで歩き出す。公園を出る直前、それまでとは少し違うやわらかな風が、私の髪を控えめに揺らした。立ち止まって後ろを振り向くと、かすかに震える桜が目に映る。空を見上げてゆっくりと息を吐いた。
 春が、やってきたのだ。
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