プロローグ



『誕生日おめでとう。俺がいなくて寂しいだろ?』

 捨てようと思っても捨てられなかった、しわくちゃの手紙。私の18歳の誕生日に、プレゼントとともに送られてきたものだ。この気持とともに封印しようと思って机の引き出しの奥にしまいこんでも、結局また取り出してしまう。何度読み返したって、何度思い出したって、もうあの頃の私たちには戻れない。それでもこうして彼と過ごした時間に思いを馳せる私は、自分でも呆れてしまうほどばかだ。

 私が彼と出会ったのは、高校に入学する前。中等部から大学部まである青凛学園高等部に特待生として入学が決まり、新入生代表の挨拶のことで学校に呼び出された時だった。
 青凛学園では、毎年入学前の試験で成績トップの者が新入生代表の挨拶をすることが決まっている。けれどその年の成績最上位者は二人。私と彼だった。挨拶をするのは一人。それを決めるために、私たちは呼び出されたのだった。
 臆病で人前に立つことが嫌いだった私は、そんな大役は引き受けられないと断ったけれど、彼は何の迷いもなく引き受けた。おどおどした私を見て、彼は「情けない、つまらないやつだ」と言った。
 その言葉が示すとおり、彼の私に対する印象は悪かったのだと思う。そして初対面でそんな言葉を投げつけられた私も、彼に対する印象は最悪だった。
 そんな出会いだったけれど、自分でもよくわからないうちに彼を好きになり、いつの間にか彼は、私にとってなくてはならない存在になった。彼も同じように感じてくれていたと思う。
 いつまでも一緒にいられると思っていた。これから先もずっと彼の隣を歩いていけるのだと、そう信じていた。
 
 高校三年になる年の春、父親の仕事の都合で、彼は母親の実家があるドイツへ行ってしまった。
 建築士である彼の父親は、大学卒業後ドイツに渡り、そこで小さな建築会社に務めていた。結婚して彼が生まれ、経済面でも不自由なく幸せに暮らしていたけれど、彼が中学校に入学する前、独立を機に日本に戻ってきた。会社の経営はうまくいき、彼の父親の力を借りたいという申し出が殺到していたそうだ。
 高校二年の三学期が始まる頃、以前彼の父親が務めていた会社から連絡が入った。ヨーロッパ中を巻き込んだ一大プロジェクトの指揮をとることになったから、一緒にやってくれないか、という依頼だった。彼の父親はその依頼を受け、抱えている仕事をすべて片づけたあとドイツへ発つと彼に言った。もう日本に戻ってくることはないかもしれない、とも。
 彼は数日間悩んだそうだ。私と一緒にいるために、一人で日本に残ることも考えてくれたらしい。けれどその頃彼には夢があった。父親のような建築士になりたいという夢が。日本でも建築を勉強することはできる。しかし彼にとっては、大きな仕事に参加する彼の父親のそばにいることのほうが有益だった。
 両親と一緒にドイツへ行くと言った彼の言葉に、私はうなずいた。そもそも私には、彼を止める権利なんてなかったのだ。それに、どんなに離れていても、気持ちまで離れることはないと思っていたから。安心しろ、と言って抱きしめてくれた彼を、信じていたから。
 けれど私たちは子どもだった。相手を想えば想うほど、離れていることがつらかった。精一杯の恋をしていたからこそ、逃げたくなったのだ。

 毎日のようにかかってきていた電話も、二日に一回、週に一回と次第に回数が減り、ある時急に途絶えてしまった。私からかけようかと何度も思ったけれど、結局いつも携帯を数分間見つめただけで終わり。その頃はもう、話をすることすら苦痛だった。
 私が彼を嫌いだとか、彼が私に飽きてしまったとか、そんなことではない。むしろ、お互いの想いは日に日に強くなっていたはずだ。
 だからある時突然鳴り響いた彼からの着信を知らせる音で、私は、私たちの終わりを悟ったのだ。

『もう、お前を縛りたくない』

 静かにそう言った彼に、私は同意した。私もあなたを縛りたくない、と。
 二言三言言葉を交わしたあと、どちらからともなく電話を切った。悲しさもあった。喪失感もあった。けれど一番大きかったのは、安堵感だった。
 もう彼に縛られなくていい。やっと自由になれる。それが本音だった。
 結局お互いに、会えないつらさから、相手を想い続ける苦しさから逃げたかっただけなのかもしれない。彼も、口では「縛りたくない」と言うけれど、心の中では「縛られたくない」と思っていたはずだ。私のことを考えての言葉のようで、実は自分が逃げるための口実だった。楽になりたくて、責任を私に押し付けた。私だって同じだ。

 もしも彼が日本に残っていたら、こんなことにはならなかったかもしれない。けれど過去に「もしも」なんてありはしないのだ。起こったことを変えてしまうなんて、誰にもできない。
 それでも私が彼を、彼が私を愛していたことは紛れもない事実だ。今となっては甘くて苦い思い出となってしまったけれど。

 離れてから二年は、相手を想うことに一生懸命だった。
 そして別れてから一年、今度は相手を忘れることに一生懸命になった。結局、この一年間の努力は成果に結びついていないのだけれど。
 彼から解放されて自由になったはずなのに、いまだ私の心は彼にとらわれたまま、前に進むことを拒み続けている。
inserted by FC2 system