それぞれの理由

岳と春子と冬貴



 岳には、学校に通う意味がわからなかった。社会で生きていくために必要なことは読み書きができることと算数ができること、ただそれだけだと彼は考えていた。そしてそんなものは小学生の時すでに身に付けている。ただ彼には常識というものが備わっていなかった。それゆえ彼はその一番大事なものの欠落に気付けずにいた。
 部活動に入部することが必須のこの学校で、面倒ながらも岳はサッカー部に入部した。特に入部したかったわけではなく、なんとなく気分で選んだ部活だった。しかし入部早々岳の不真面目な態度に激怒した顧問に、岳も切れた。そして次の日から彼は部活に行かなくなった。そんな岳に、担任は執行部に入部することを勧めた。執行部は様々な雑用を請け負い、それをこなすだけの部活だと誰かが話していた気がする。冗談じゃない、と岳は思った。なぜ自分がただ他の者に使われるだけの都合のいい雑用係にならなければならないのか、と。けれど岳の意思を無視して、担任は勝手に入部届を出してしまった。腹は立ったが、結局は部活に行かなければいいだけのことだという考えに至り、しばらく岳はこの学校には存在しない帰宅部のごとき生活を送った。
 ところが、である。ある日の放課後、岳がいつものように家に帰ろうとしていた時、教室の入り口で見慣れぬ女子生徒が岳の名前を大声で叫び始めたのだ。クラス中の視線を集めた岳はため息をつき、しぶしぶその女子生徒のもとへ向かった。

「あなたが夏川岳くん?」
「そうだけど」
「私二年の松本春子。執行部の副部長やってるんだけど、あなたいつまで部活さぼるつもり?」

 面倒なのが来た。どうやって逃げようか。そんなことを考える岳を、松本という女生徒はじっと見つめた。

「今日は来てもらうからね」
「俺入部した覚えないんだけど」
「覚えはなくても入部届はここにあるのであなたはうちの部員です」

 岳の名前がはっきり書かれた入部届を目の前でひらひらと振って見せる女生徒に、不機嫌さを隠そうともせずに岳は舌打ちをした。

「態度悪いな。私先輩だよ、わかってる?」

 うるせえな、と小さく呟いた声が聞こえているのかいないのか、女生徒は表情を変えずに岳の手首をつかみ歩き出した。

「おい、放せよ」
「部長に言われてんの。引きずってでもつれて来いって」
「知るかよ。放せ」

 女生徒は怒気を含んだ岳の言葉を気にした様子もなく歩き続ける。意外に力が強い。

「放せって言ってんだろふざけんな!」

 大声で怒鳴り自分の手首をつかんでいた手を思い切り振り払った。すると女生徒の表情はみるみる怒りに染まり、瞳は鋭く岳を睨みつけた。

「あんたがふざけんな! 先輩には敬語を使え!」
「うるせえ!」

 岳も頭に血が上っていた。怒りにまかせて女生徒を突き飛ばすと、彼女は大きくよろける。場所が、悪かった。あっ、と思って手を伸ばした時にはすでに遅く、岳の手は宙をつかんだだけだった。女生徒は派手に階段を転がり落ち、踊り場でぐったりとしたまま動かなくなった。



「うちの春子に、よくもこんなことしてくれたね」

 目の前にいる執行部部長、武田冬貴は愛想のいい笑みを浮かべているが、言葉は棘を含みちくちくと岳を攻撃する。彼の隣に座る春子がまあまあとなだめるが、彼女の包帯や湿布だらけの体が、冬貴の言葉以上に岳にダメージを与えた。春子のけがは特に大きなものもなく、医者にも「あざはしばらく消えないだろうが心配はない」と言われていた。大事には至らなかったが大変なことをしてしまったと、岳は真っ青になって春子に謝った。許してはもらえないだろうと思っていたが、岳の予想に反して春子はあっさりと岳を許したのだった。しかし冬貴は納得がいかないらしい。春子本人がいいと言うにもかかわらず、岳に土下座させようとするのである。岳は、春子よりも冬貴が怖かった。土下座でも何でもするから、冬貴に許してほしい。

「許してほしかったら今すぐ土下座。そしてこれからはちゃんと部活に来ることだ」

 岳はなぜか、冬貴に土下座して謝っていた。ちょっと、それおかしくない? と釈然としない表情を浮かべる春子の横で、冬貴は満足げにうなずいている。
 この事件以降、岳は毎日部活に来るようになった。春子や冬貴に無意味に反抗することもなく、現在ではそれなりに可愛がられている。
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