二人の関係



「どうしてそんなことを知っているの?」

 その問いに対する答えを聞いて、雅は怒りを抑えることができなかった。



 生徒会室の扉を開けた雅がまず向かったのは、大きな書棚から辞書を取り出そうとしている明彦のところだった。

「ちょっと話があるんだけれど、いいかしら」

 この言葉を聞いた冬貴は一瞬で状況を判断し、隣の執行部部室へと消えていった。残された明彦は、雅の機嫌が悪いこと以外、何がどうなっているのかわかっていないらしい。なぜ雅はピリピリしているのか。なぜ冬貴はこの生徒会室を出て行ったのか。まったく状況が理解できていない明彦に怒りが増した雅は、きつく明彦を睨みつけた。

「明彦、あなた何を考えているの?」

 何を考えているのかと聞かれれば、なぜ雅が自分に怒りを向けているのかということであるが、雅が求める答えはそういうものではないらしい。適当な答えが思い浮かばず考え込む明彦に、雅は一歩近付いた。

「あなたしか知らないはずのことを知っている人がいたの」

 そこでようやく、明彦は雅の怒りの理由に思い至った。おそらく、あのことだ。それは二日前の放課後の話。明彦は、剣道部の部員であり一年の時に同じクラスでもあった男からあることを尋ねられたのだ。その「あること」とは、雅と自分のことだった。二人はどういう関係なのか。どういう関係かと聞かれても、ただの幼馴染みだと答えることしか、明彦にはできなかった。それ以外に答えなどないからだ。するとその男は、なんだやっぱりそうか、と言った。お前と彼女がそういう関係なわけないよな、とも。「そういう関係」というのがどういう関係を示すのかいまいちピンとこなかった明彦は、うんうんとうなずいている目の前の男をただぼうっと見つめていた。その後男は、雅のことをいろいろと聞いてきた。好きな男はいるか、趣味はなにか、スポーツはするのか、校内でよく行く場所はあるか、などなど。明彦はなぜそんなことを聞いてくるのか疑問に思いながらも、自分の知る限りのことを丁寧にひとつひとつ答えていった。好きな男がいるかどうかはわからない、趣味は読書と書道、スポーツは小さい頃から自分と一緒に剣道をしている、校内ではお気に入りの場所があって、図書室横の書庫によく行っている。話を聞き終わると、男は礼を言って帰っていった。明彦は、どこか釈然としない気持ちでその男の後姿を見送ったのだった。

「あの人、最近よく書庫に来るの。あそこはめったに人が来なくて静かだから好きだったのに、あの人が来るようになってからうるさくて仕方がないわ。しつこく話しかけてくるんだもの。話した覚えもないのに、私の趣味なんかも知っていたし」
「すまない。どうしても教えてほしいというものだから」
「だからって、人のプライベートを本人の許可もなくペラペラと話していいというものではないわ」
「……そうだな。本当にすまなかった」

 うなだれる明彦を見て怒りが静まってきた雅は、はぁ、とため息をついた。

「もういいわ。それに、私が腹を立てているのはあなたに対してだけではないし」
「……どういうことだ?」
「彼よ」

 彼、とは例の男のことだ。聞きたいことがあるならば本人に直接聞けばいい。本人に聞けないようなことならば、初めから聞かなければいい。それが個人的な内容であるならばなおさら。もちろん簡単に話してしまった明彦にも非があるし、雅もこの件に関してはその男よりも明彦に対しての怒りの方が大きい。雅は、この件とは別の、その男がある人物に関して言った言葉に対して腹を立てているのである。

「あの人、明彦のことを、あんなやつなんか、と言ったの」

 思わぬところで自分の名前が出て来たことに驚き、明彦は目を丸くした。それになぜ雅が、これしきのことでここまで怒りを露わにしているのかもわからない。

「くやしいわ。私の大事な人を、彼は蔑んだんだもの。明彦のことをよく知りもしないで、どうしてそんな見下した言い方ができるの? 彼はあなたに謝るべきよ」
「ちょっと待ってくれ」

 明彦は混乱していた。雅があの男に対して怒りを感じている理由は理解できた。けれど、雅が言ったことの中で一つだけ理解できないことがある。雅は「大事な人」と言った。話の内容から、それはおそらく自分のことだ。その言葉を聞いた瞬間、なぜかはわからないが、明彦の心臓は大きく跳ね上がった。「大事な人」という言葉に、なにか特別な響きを感じたのだ。ある衝動に駆られ雅に向かって伸ばしかけた腕を、明彦はゆっくりと下ろした。

「雅、少し話がそれるが、いいか?」
「ええ」
「俺たちは、ただの幼馴染みだ」
「……ええ、そうね」
「ただの幼馴染みに対してこんな……」

 そこで明彦は言葉を切った。自分が今感じたものは何だったのか。さっき自分は何をしようとしたのか。ただの幼馴染みに対して一瞬でもこんな感情を抱いてしまうのは、普通のことなのだろうか。それは「ただの幼馴染み」と言えるのだろうか。いろいろなことが頭を巡りさらに混乱してしまった明彦は、ぶんぶんと頭を振り、くるりと後ろを向いて窓の外を見た。

「いや、なんでもない」

 今はまだ、わからなくてもいい。そのうちわかる時が来るのだ。二人の関係をはっきりさせることができる日が、いつか来るのだ。それまではこのまま、今の関係が一番居心地がいい。

「なんだか、もうどうでもよくなってしまったわ」

 明彦の隣に立ち、雅はふっと笑みをこぼす。先ほどまでの怒りもすっかり萎んでしまった。あの男が知ってしまったこと以外にも、明彦だけが知っている雅がある。もちろん雅だけが知っている明彦だってあるし、二人だけの秘密もある。今の二人にとっては、それで十分なのだ。
inserted by FC2 system