君を、



 彼女の温もりを感じながら、俺は目を覚ました。
 そして思う。何かがおかしい、と。
 俺の右手は彼女の左手を握ったまま。それは昨晩と同じだ。
 けれど昨晩たしかにベッドに寝ていたはずの俺は、固い椅子に腰かけて体を折り曲げ、目の前のベッドにうつぶせた状態で眠っていた。ベッドに横たわるのは彼女ひとり。
 そうだ。それが一番の違和感の正体だ。彼女がまだ眠っている。
 いつも俺より早く起きる彼女が、まだ眠っているのだ。

「唯……」

 なんだここは。
 真っ白な室内を見渡しながら、まるで病室のようだとぼんやり思う。
 そうして再び目を向けた彼女には、人工呼吸器や心電図モニターが取り付けられ、腕には点滴針が刺さっていた。
 いったいどういうことだ。俺は夢を見ているのだろうか。

「唯」

 もう一度彼女を呼ぶが、返事はない。毎日俺に向けていた穏やかな笑みすら、彼女の顔には浮かんでいなかった。
 そんな彼女を数秒見つめ続けているうちに、俺は言いようのない気分の悪さに襲われた。身体の中を何かにぐるぐるとかき回されているような不快感で、吐きそうになる。
 口もとを押さえて必死に堪え、深く呼吸をする。心臓は激しく脈打ち、額には汗が浮かんだ。
 こぶしを握り締めて、震えだしそうな体と心に言い聞かせる。大丈夫だ、と。
 いったい何が「大丈夫」なのかはわからない。けれどそうして何度も何度も自分を安心させるような言葉をかけてやらなければ、たとえそれで本当に安心できるようなことがなくても、俺は俺でいられなくなる気がした。

「岡野君」

 ふと、俺を呼ぶ声がした。

「大丈夫か? 顔色が悪い」

 すぐに俺の横に移動してきた声の主を、座ったまま見上げる。よく見知った、俺の上司だった。
 そこで新たな疑問がわいた。なぜ部長がここにいるんだ。彼女が静かに横たわるのを当然のように見つめているのはどうしてだ。

「部長……唯は、どうしてこんなところに……。ここはどこなんです?」

 そう言った俺を驚いたような表情で振り向く部長。次には何かを理解したように再び彼女の方を向き、短く息を吐いた。

「混乱しているんだな。それとも受け入れられないだけなのか……。それも仕方がない。目の前であんなことが起こっては……」

 部長は、俺の目の前で起こったという出来事を話した。彼自身伝え聞いた話なので詳細はわからないという。けれど詳しいことはわからなくとも、最初の一言でこの状況を理解できる内容だった。

「交通事故だ。彼女が飛び出した。君も見ていた」
「嘘です。俺は何も見ていない」
「見ていたんだ。周囲の人も証言している。彼女は転がった指輪を追って道路に飛び出した。信号はまだ青だった。だが信号を無視した車が突っ込んできた。彼女と一緒にいた君はすぐに彼女に駆け寄った。救急車を呼んだのは、君自身だ」
「嘘だ!」

 その叫びに驚いたのは部長だけでなく、俺も同様だった。自分がこんな悲鳴に近い叫び声をあげるなんて、信じられない。
 けれど「嘘だ」という俺の言葉は真実だ。部長が事実として話した内容は、一切俺の記憶にはない出来事だった。そして昨日の夜、少なくとも俺が眠りにつくまでの間、彼女は俺とともにいた。
 ……そうだ。

「部長、彼女は指輪を追って、と言いましたよね?」
「ああ、そうだ」
「彼女は指輪なんて持っていません」
「何を言ってる。君が贈った指輪だ」
「それならよけいにおかしい。俺は昨日、彼女に指輪を贈ったばかりです。でも現物が届くのはまだ先のはず」
「岡野君……君は昨日、たしかにリングケースを持っていたよ。業務を終えて帰宅する前に嬉しそうに話していたじゃないか。正式なプロポーズから、自分たちの結婚をやり直すと」

 おかしい。すべてがおかしい。話がまったくかみ合っていない。
 片方がすべて本当のことを言っているなら、もう片方はすべて嘘を言っていることになる。そして俺は、俺が本当のことを言っているのだと知っている。
 彼女の誕生日の翌日である昨日は、二人で指輪を買いに行った。届くのは早くて二週間後。自宅療養中の俺は会社に行ってもいないし、部長に会った覚えもない。なにより、俺と彼女はやり直すべき結婚などしていない。
 それなら部長が嘘をついていることになる……が、この状況で、部長がこんな不謹慎な嘘をつくはずはない。それに部長の話すことの方が真実に近い、あるいはそのまま真実であることを示すかのように、俺の目の前に彼女は横たわっている。
 思いついたように、握りしめたままの彼女の左手を見た。やはり、指輪などはまっていない。
 ほらみろ、やっぱり指輪はまだ届いていないのだ。届いていたらすぐにでも、俺は彼女の薬指に飾ったはずだ。
 ほっと息を吐き出して、何気なくサイドテーブルを見た。置かれている小さな箱に見覚えはない。けれどその中に何が入っているのか、俺は一瞬で理解した。気づいてしまったのだ。
 箱を開けて中を確認することは無駄だと悟った。ベッドサイドのネームプレートに書かれている名前は「岡野唯様」という文字。
 俺の記憶ではなく、部長の語る事実が今につながっているのだと知った。
 途端にあふれだす涙を止めることなどできるはずもなく、声を殺すことをしようともせず、俺はその場に泣き崩れた。

 部長が何も言わずに病室を出て行ってから数時間後、日も暮れ、二人きりになった真っ暗な室内で、彼女は静かに息を引き取った。俺の呼びかけに応えるように一度、大きく息を吸い、吐いて。
 彼女の瞳からこぼれた一粒のしずくを指ですくい、額に口づけを落とした。一度も言えなかった言葉を想いに変えて、それが彼女に届くように。

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