初恋薊 −1−



 ゴールデンウィーク初日、予定通り私たちは旅行に出発した。朝八時に大学で待ち合わせて八時半出発の送迎バスに乗る。バスが宿泊施設に到着したのは午後一時だった。
 この宿泊施設には宿泊棟が六棟ある。二階建てのログハウスタイプが三棟、七階建てのマンションタイプが一棟、十階建てのホテルタイプが二棟。
 ログハウスタイプは三棟がそれぞれ一定の間隔で建っており、間は背の高いモミの木で仕切られている。最大八人が宿泊可能なので、家族で利用する人が多い。マンションタイプは和洋室で調理器具などもそろえられている。アメニティが充実していて素泊まりで利用することができるので、一番人気でいつも予約がいっぱいだ。ホテルタイプは本館と別館の二棟で、部屋は本館に和洋室と和室、別館に洋室がある。その他本館には大浴場やプールがあり、どの宿泊棟の利用者でも自由に利用できるようになっている。
 この宿泊施設の魅力は、広い敷地とそれを利用した数多くのアミューズメントだ。敷地中央部分の広い公園内には春から秋にかけて利用できるテニスコート、森林浴散歩コースがあり、その隣にはゴルフ場も設置されている。また、ホテルの裏手にはスキー場もあるので、冬にはスキーやスノーボード、暖かくなるとグラススキーやマウンテンボードを満喫できる。ホテル本館前のアミューズメントタワーは、一階部分が食堂とカフェ、二階と三階がアミューズメント施設となっており、ボウリングやビリヤード、ダーツや卓球など様々なインドアアミューズメントが用意されている。天気や季節に左右されず、性別や年代関係なく楽しめるので、休暇を過ごすにはうってつけの場所だ。
 私たちが宿泊するのはホテル別館。送迎バスはそれぞれの宿泊棟を回って次々と乗客を降ろしていき、気が付けば私たちが最後の乗客となっていた。バスを降りてホテル本館のフロントでチェックインをすませ、渡り廊下を渡って別館へ向かう。用意された部屋は、三階と五階にあった。私たちが泊まるダブルの部屋が五階、川嶋くんたちのコネクトツインが三階だ。
 みんなでエレベーターに乗り、まずは三階で全員降りた。表示を頼りに廊下を進み、目的の部屋にたどり着く。ドアを開けると、正面には大きな窓があった。外に見えるのはスキー場だ。部屋を入ってすぐ左側がバスルーム、奥に進んで右側にドレッサーとテレビ、その向かい側にベッドが置かれている。ベッド横のドアを開けると、こちらとは対照的な間取りの部屋が一部屋。

「シングルの部屋がつながってるだけなんだね。バスルームも別々だし。いい部屋じゃない」
「狭い」
「文句言うなよ水無瀬。言うほど狭くもないだろ」
「ツインよりはマシだな。川嶋と同じ部屋なんて耐えられねえ」
「俺だって同じだ」

 二つの部屋をざっと見たあと、川嶋くんたちは荷物を置いて、今度は五階に向かうために一度部屋を出る。廊下に出てすぐに、手に持っていたボストンバッグがすっと取り上げられた。お礼を言う間もなく歩き出した彼を見て、川嶋くんは苦笑しながら洋子ちゃんの荷物を持った。
 私と洋子ちゃんが泊まる部屋は、間取り的には川嶋くんたちの部屋とほぼ同じだった。こちらの方が部屋が少し広く、窓際にはカフェテーブルとチェアが置かれている。

「荷物ベッドの上に置いといていい?」
「うん、ありがとう、川嶋くん」

 川嶋くんに続いて、私の荷物をベッドに置いた彼にお礼を言った。たった一言だけでも、彼に向けて言葉を発するのは勇気がいるし、緊張する。彼の前ではどきどきして脈拍数も普段の倍以上になっている気がする。一生涯の心拍数が本当に決まっているとしたら、私はきっと早死にだ。

「とりあえずお昼食べようよ。私おなかすいた」
「それじゃあ、すぐそこの食堂に行こうか。上にいろいろ遊べるところもあるから、食事したらみんなで行ってみない?」
「俺は行かねえぞ」

 は? という声と同時に川嶋くんが彼の方を振り向いた。一方彼は、腕を組んで窓の外を見ている。

「一人でゆっくりしてえからな。疲れてんだよ」
「なんだよお前、年寄りくさいな」
「うるせえ。お前がいるからだ」
「俺のせいにするなよ。食事はどうするんだ?」
「あとで一人で行く」

 そう言うと、彼は部屋を出て行った。一緒に行かないのは川嶋くんがいるからだと言っていたけれど、本当は私がいるからなんじゃないかと考えてしまって落ち込んだ。そんな私に気づいて、洋子ちゃんと川嶋くんが明るく声をかけてくれる。二人はいつも優しい。これ以上気を使わせないように、私も変な方向に考えこむのはやめよう。
 アミューズメントタワー一階の食堂は広々としていたけれど、落ち着いて食事ができる雰囲気ではなかった。ゴールデンウィーク中のため小さい子どもをつれた人も多く、上の階からはにぎやかな笑い声が響いてくる。バタバタとエスカレーターを駆け下りてくる子どもと、注意をしながら後を追う親の姿を何度か見かけた。
 食事を終えたあとは、ゲームセンターとボウリングで遊んだ。最初はビリヤードやダーツもしようと話していたけれど、気が付くと予約している夕食の時間が近づいていたのであきらめた。

「時間がたつの早い! 外のスポーツも含めて全部遊ぼうと思ったら、二泊三日じゃ全然足りないね」
「そうだね。テニスとかやり始めたら、俺一日コート離れない気がする」
「さすが元テニス部員。じゃあ明日はテニスしよう! それなら水無瀬くんも来るでしょ」
「あいつも相当テニス好きだからね。高校の部活引退した後も、スポーツクラブ行ったりして続けてるらしいよ」
「サークル入ったりはしないの? テニスサークルの子たち見てるとけっこう楽しそうなのに」
「サークルは遊び感覚でやってるやつが多いから嫌なんだってさ」
「あー、なるほど。水無瀬くんらしいね」

 二人の話を聞きながら、相変わらずテニスが大好きなんだとわかってうれしくなった。昼間何も言わずに荷物を持ってくれたり、さりげないやさしさや気配りも以前と一緒。変わらないところが見つかって、なんとなく安心してしまったのだ。三年前と全然違う人になってしまっていたら、寂しいから。別れる前のような関係に戻れないのなら、せめて少しでも多くの彼を知っていたい。ただでさえ私は、会えなかった三年間の彼を知らないのだ。

 一度それぞれの部屋に戻ったあと、私と洋子ちゃんは三階の川嶋くんたちの部屋に下りた。ドアをノックすると川嶋くんが出てきて、部屋の奥に向かって彼の名前を呼ぶ。どうやら私たちより先にホテルに戻ってきていたようだ。
 別館一階のカフェレストランで四人そろって夕食をとったあとは、部屋で着替えを取って本館の大浴場に向かった。大浴場は一階部分にあり、午前午後ともに一時から十一時の間ならいつでも利用可能になっている。窓の外には森林が広がり、露天風呂はまさに森に囲まれた温泉といった感じだ。
 数種類のお風呂をゆっくり堪能し、私たちは大浴場を出た。脱衣所でルームウェアを着て髪を乾かしていると、洋子ちゃんの携帯がにぎやかなメロディで着信を告げた。二、三分話をして電話を切った洋子ちゃんは、私にも携帯を確認するように言う。見ると、数分前に川嶋くんから着信が一件。

「川嶋くんたち、けっこう前に上がってたみたい。やっぱり女の子はお風呂長いね、だって。あと、明日は予定通りテニスね。水無瀬くんも一緒に行くって」

 移動時間が長かったことと、少しではあるけれど体を動かしたことで疲れていたのもあり、私たちは部屋に戻るとすぐにベッドにもぐりこんだ。温泉につかって体もぽかぽかと温かく、眠るまでにそれほど時間もかからなかった。

 翌朝は早い時間に目が覚めた。時刻は午前四時すぎ。外はまだ暗い。もう一度寝ようと思って目を閉じたけれど、昨日のようにすぐに眠りがやってきそうにはなかった。隣で眠る洋子ちゃんを起こさないよう静かにベッドを出る。せっかくなので温泉に入ろうと思い立ち、ひと気のない廊下を進んで大浴場へ向かった。
 こんなに早い時間だというのに、大浴場利用者はすでに数人いた。それぞれがゆっくりと自分の時間を楽しんでいるようだ。私は誰も利用していない露天風呂にしばらくつかり、空が白み始めて人が少しずつ増えてきたところでお風呂から上がった。
 脱衣所を出て自動販売機でお茶を買い、ソファに座ってぼーっとする。部屋に帰ろうかとも思ったけれど、洋子ちゃんはまだ寝ているだろうし、もう少しここで時間をつぶすことに決めた。たった十分ほど座っている間に火照った体が冷えていき、それに伴ってゆるゆると眠気が襲ってくる。さっきは眠れる気がまったくしなかったのに。

「おい、こんなところで寝るな」

 頭の奥に響く心地いい声と、肩を揺さぶる大きな手の感覚に、遠のいていた意識が次第に戻ってくる。瞼を持ち上げて目に入ったのは、揺れる金髪と灰色の瞳。はっと驚いて体を震わせると、彼はすっと手を引いた。
 こんなところでうとうとしていたのを見られていたのが恥ずかしくて、一気に体が熱くなった。私が完全に覚醒したのを確認し、彼は背を向けて歩き出してしまう。なぜかはわからないけれど焦る気持ちに支配され、とっさに立ち上がって彼を呼び止めてしまった。振り向いた彼は、じっと私を見つめている。

「いち……水無瀬、くん、あの……旅行、楽しくない? もし楽しくないって思ってるなら、それって私のせい? 私がいるの、いや……?」

 肯定されてしまったらつらいけれど、聞いておかなければならないと思った。もし私が近くにいることすらいやなのであれば、今後友達として付き合っていくことだって不可能だ。
 心臓の音が耳に響く。ふっと私から視線をそらした彼は、すぐにまた私の瞳を見据え、無言のままゆっくりと近づいてきた。

 気づいた時には、瞼を伏せた彼の顔が目の前にあった。私の中にあるのは、瞬きをすることも、息をすることさえ忘れてしまうほどの混乱だけだ。
 たった二、三秒の出来事。
 押し付けられていた唇が離れると、彼は何事もなかったかのように平然と歩き去ってしまった。残された私はただ呆然と立ちつくし、その背を見送ることしかできなかった。
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