花舞小枝 −3−



 四月も終わりに近づくと、新しい授業にも慣れて緊張感もなくなり、学内は少しだけざわついてくる。あと一週間もすればゴールデンウィークとなればなおさらだ。今年もゴールデンウィーク明けの日には、普段よりも空席が目立つ教室に入った先生たちの溜息を聞くことになるだろう。
 入学したばかりの頃は、みんな休まず真面目に授業を受ける。けれどだんだん出席率は落ちていってしまうものだ。試験を受けるには全体の三分の二以上の出席率が必要だけれど、洋子ちゃんは出席を取る授業を要領よく休み、単位は落とさずに今まできている。私は体調が悪かったり、何か用事があったりする時以外はほとんど休んだことがない。洋子ちゃんや川嶋くんには真面目すぎると言われるし、私も洋子ちゃんのようにできればいいとは思うけれど、なんとなく不安で結局欠席できないのだ。真面目に授業を受けるのはいいことのはずなのに、周りの人たちのように大学生活を十分楽しめていないようにも感じて少しだけ寂しい。

 金曜日の今日は、午前中最後の時間帯に南館で必修科目が一コマ。その九十分間のためだけに大学まで来ている。
 いろんなことを考えながら選択科目を選んでいったら、授業が週の前半に集中してしまった。月曜日が四コマ、火曜日と水曜日が三コマずつ、木曜日は何もなくて、金曜日が一コマ。必修科目は月水金に一コマずつ、他はすべて選択科目だ。水曜日が終わると一週間が終わったようなものだけれど、次の月曜日が憂鬱でもある。
 洋子ちゃんと川嶋くんは、私が必修科目を受けている間に全学共通の科目を受けている。例の地球科学の授業だ。二人の話を聞くと、噂通りの楽な授業で、さらに先生が若くてかわいい女性らしい。二人とも、こんなに楽しい授業はないと言うほど。久しぶりに出席率百パーセントを達成しそうだということだ。私も必修の授業さえなければ、二人と同じ授業を受けたのに。

 私が受けている必修の授業は、日本人の先生によるドイツ文化講義。ドイツの文化を歴史的な観点で見る授業だ。初回で説明された授業の流れは、中世から現代までの歴史の流れを追っていくというものだったのに、実際これまで受けた授業は先生のドイツ旅行の話ばかり。おもしろくないわけではないけれど、これが最後まで続くのかと思うと退屈になってくる。
 この内容ならば、客観的にドイツ文化を見る日本人よりも、主観的に説明できるドイツ人の先生の方が楽しい授業になりそうな気がする。実際にドイツ文化の中で育ってきた人の話の方が、興味を持てるはずだ。

 これまでの金曜日は洋子ちゃんと川嶋くんの方が早く終わり、さらに二人も私と同様それ以降の授業がないので、三人で一緒にお昼を食べて、午後からは気分次第で映画館に行ったりショッピングをしたりしていた。
 けれど今日に限っては、どうやら私の方が早かったようだ。二人はいつも、私たち三人のお気に入りの場所となった南館裏の公園で待ってくれているのに、今日はまだ来ていない。
 腕時計を確認すると、授業終了時刻の十分前。今日先生は体調が悪かったらしく、いつもより授業を早めに切り上げたため、十五分前には終わってしまったからだ。

 ここで二人を待つのもいいけれど、どうせなら一度理系のキャンパスにも行ってみたいと思い、私はのんびりと正門に向かって歩き始めた。公園を出て南館の裏を通り、桜並木にそって歩く。こうして外から見ると、桜の木と植え込みで囲われたこの公園に気づかないのも当然かもしれない。
 南館をすぎて右に曲がれば、すぐに正門だ。正門を出た先には横断歩道。押しボタンを押して信号が青に変わるのを待つ。ほぼ大学関係者しか利用しないこの道路でも、そこそこ交通量は多い。信号の表示が立っている人から歩いている人へと変わると、私もその信号にならって横断歩道を進んだ。
 横断歩道を渡りきると、すぐ目の前には理系キャンパスの正門。文系キャンパスのものよりも少しだけ立派に見える。おそるおそる足を踏み入れた理系キャンパスは、授業終了前ということもあってか、思ったほど人は多くなかった。正門横の案内図を見ると、洋子ちゃんたちが講義を受けている講義棟は正門を入ってすぐ左手の建物――つまり私の目の前に建っているこの大きな建物のようだ。
 隣にあるのに一度も来たことのない理系キャンパスに興味がわき、そのまま案内図をじっと見続けていると、周囲がざわざわと騒々しくなってきた。あちこちの建物からどんどん人が出てきている。腕時計の針は授業終了時刻を少し過ぎた時間をさしていた。知らない人ばかりが通りすぎる中、一人ぽつんと立っているのは居心地が悪くて落ち着かない。

「川嶋くん! さくら待ってる!」

 明るい声のする方を向くと、講義棟の入り口で手招きをする洋子ちゃんと、奥の方から早足で歩いてくる川嶋くんが見えた。ほっとして二人がいる方へ歩いていくと、気づいた洋子ちゃんがこちらに向かって走ってきた。

「今日早かったんだね。こっちで待ってるならメールくれればよかったのに。この時間人が多くなるから、気づかないまま通りすぎてたかもしれないよ」
「そうだね、ごめん。次からはそうする」

 川嶋くんも来たので、私が少し理系キャンパスを見て回りたいと言うと、二人とも困ったような顔になった。洋子ちゃんは、おなかがすいたから早くごはんを食べに行こうと言う。これくらいのことなら、いつもはすぐに「いいよ」と言って付き合ってくれるのに、洋子ちゃんも川嶋くんもすぐにこのキャンパスを出たそうにしている。
 首をかしげつつも、また次の機会でいいかと思ってうなずき、ふと先ほど二人が出てきた講義棟の入り口に目をやった、その瞬間。

 見慣れない、けれどよく知っている人が――私の恋人だった人が、ゆっくりと講義棟から出てくるのが目に入った。
 
 二人がそわそわしていた理由がわかった気がした。ここから早く出たかったのではなく、早く私をつれ出したかっただけだったのだ。
 二人は彼がここにいることを知っていた。そして私が彼と出会ってしまわないように、気を使ってくれていたのだ。
 あんなふうにして別れた私たちが、再び出会って笑い合えるはずがない。最後に感じていたのは、お互い、つらく苦しい思いだけだったのだから。

 記憶にあるよりも身長が伸び、大人びた表情をしている彼は、あの頃と変わらずきれいだった。茶色がかった金髪と透き通った灰色の瞳は、初めて出会った時に強く印象付けられている。
 洋子ちゃんや川嶋くんが私を呼んでいる気がするけれど、意識がそちらに向かない。
 大好きで、ずっと忘れられなかった彼。「どうして?」ばかりが頭に浮かぶけれど、それを口にすることもできず、私はただ彼を見つめたまま、石になってしまったかのように動けなかった。
 まっすぐこちらに向かってくる彼の目には、私の姿は映っていないように思える。だから、それでも、私の心臓は激しく脈打ち、顔には熱が集中する。
 一歩、自然に足が前へ出た。彼との距離は、数メートル。

「いち……き、くん……」

 自然と漏れた声は掠れて小さく、彼が気付いたかどうかはわからない。すっと私の横を通り過ぎた彼からは、ふわりと懐かしい香りが漂った。

 彼が視界からいなくなった瞬間、急に足の力が抜け、立っていられなくなった。がくんと地面に膝をつくと視界はぼやけ、すぐに瞳からぼろぼろと涙がこぼれ始める。人目を気にしている余裕なんて少しもない。
 洋子ちゃんが何度も何度も私の名前を呼んでいるのに、答えることができなかった。喉がひきつれ、呼吸すらもうまくできない。

 哀しいのは、彼が私に気づかなかったからじゃない。無言のまま歩いていってしまったからじゃない。無意識のうちに彼の名前を呼んだ時、気づいてしまったからだ。

 ――私はまだ、彼を覚えている。私はまだ、こんなにも、彼のことが好きだった。
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