花夜子



 私と千世は、けんかというものをほとんどしたことがない。いや、けんからしいけんかをしたことがないと言った方が正確だろうか。というのも、いつも本格的なけんかになってしまう前に、千世がとぼけたことを言って終わってしまうからだ。
 だから今回のようなことは初めてだった。今回も、本格的なけんかになる前に終わってしまった。けれど今までと違うことがある。
 千世は、私が言ったことを許していない。
 これまでは軽く言い争ったあとでも、千世が私に微笑んで話しかけるか、私が千世の名前を呼ぶか、そうすればそれが仲直りの合図だった。
 昨日の電話のあと、私も千世も、お互いに連絡を取り合わなかった。今日になって千世に電話をしてみたけれど、千世は出ない。千世から電話がかかってくることもなかった。
 千世の気持ちを考えない発言だったことはわかっている。言ったことが間違いではなく、千世にとって一番的確な忠告だったことも。けれど、後悔はしていた。
 千世が進もうと決めた道を私が塞ぎ、千世を傷つけてしまったのだ。
 静まり返った部屋で一人、ただひたすら昨日の千世とのやり取りを頭の中で繰り返していると、突然携帯が振動とともに鳴り出した。ディスプレイには「陽斗」の文字。

「もしもし」
「もしもし、今ちょっといいか?」
「うん、いいよ」

 何の話か、そんなことは聞かなくてもだいたい予想はできた。話し始めるとやはり考えた通り。

「千世、好きなやつがいるんだってな」
「そうだよ。内定もらった会社の専務だってさ」
「聞いた。あいつ、誰かと付き合うとかとかあんまり興味なさそうだったのに」
「私もびっくりした。いきなりだったし、一目惚れみたいだし」
「花夜子も会ったんだよな。……どんな男だった?」
「なんでそんなことが気になるの?」

 言わなければよかった、と思った時にはもう遅かった。
 花夜子は千世の妹だろ。その陽斗の言葉は明確な答えではなかったけれど、私にとってはそれで十分に理解できる。陽斗が千世を好きだという事実以上のこと。
 陽斗が、私を「女」として見ることはないのだということだった。

「安心して。最低な男だったから、やめとけって千世に言っといた。それで今千世に無視されてるところだけど」

 言って正解だった。でも、言わなきゃよかった。本当の正解と私にとっての正解は、まったく正反対なのだ。
 しばらく他愛のない話をしたあと、電話を切る前に「花夜子が味方だと心強い」と陽斗は言った。
 私は陽斗の味方じゃない。千世の味方でもない。ただ二人の味方のふりをしているだけ。顔を背けられないほど近く、すぐ目の前に事実を突きつけられてもなお、私は私の味方でしかないのだ。
 気分は落ち込み、浮上しそうにない。幸いバイトも休みだし、今日はひたすらごろごろしようと決めてテレビをつけた。あれこれチャンネルを変えてみたけれど、おもしろいと思える番組はなく、結局ぶちりと電源を切った。
 ベージュのカーペットの上にごろんと横になり、考える。自分は何をしたいのか、何をしようとしているのか。ほしいのは陽斗の心か、千世の幸せか。二人の顔がぐるぐると頭の中を巡り、気分が悪くなる。
 ぎゅっと目をつぶり、二人を頭の中から追い出した。



 遠くで聞きなれた音が鳴り続けている。音の方へ手を伸ばすと、何か固いものに触れた。ゆっくりと目を開け、手に伝わる振動を感じると、ぼやけていた視界が次第にはっきりしてくる。どうやら眠っていたらしい。
 半分寝ぼけたまま音を発し続ける携帯を引き寄せて通話ボタンを押し、耳に当てる。

「ふぁい」
「小野宮ですが……こんな時間に寝ていたんですか? 夕方の4時ですよ。まさか昨日の夜から今まで布団の中、なんてことではないでしょうね?」

 起き抜けの頭に響いた声は一瞬で私を覚醒させ、脳に不快感を植え付ける。相手を確認するべきだった。

「用件は何ですか」
「確認したいことがいくつかあります。迎えに行くので住所を教えてもらいたい」
「いやよ。今話せばいいじゃない」
「今話せるようなことではないから言っているんです。住所を私に教えるのがいやなら、君の大学で落ち合いましょう。一時間後でいいですか?」

 どこまでも自己中心的な男だ。私に用事があるかも、なんて少しも考えていない。たとえ私に用事があったとしても、よほどのことでなければ自分の要件を優先させそうだし。
 私は千世を人質にとられているようなものだから、逆らうことなんてできない。
 結局男に言われた通り、電話がかかってきてから一時間後、正確には5分ほど遅れて、私は大学に到着した。男はすでに駐車場に車を停めて待っていた。

「遅刻ですよ。一時間後という提案に同意したのですから、せめて時間通りには来てもらいたいですね」
「すみませんでした」
「私も暇ではありませんので」
「……ごめんなさい」

 男は短く息を吐いてから助手席のドアを開けた。黙って車に乗り込むと、ドアが閉められる。
 誰にも見つかってはいけないのに、大学で待ち合わせなんてしてもいいのだろうか。それぞれが直接目的地へ向かった方がよくはないだろうか。
 走り出した車の中で男に問うと、「たとえどこで待ち合わせをしようとかまわないんですよ。恋人として二人一緒にいるところを顔見知りの人間に見られなければ」という答えが返ってきた。
 どこで誰が見ているかわからないのだからせめて怒った顔でいるのはやめてくれ、という昨日の言葉と若干矛盾している気がする。

 つれて行かれたのは、昨日と同じ超高級ホテルのスウィートルームだった。なんだか目がチカチカするし、無駄に緊張する。調度品や装飾品は高そうなものばかりだから、下手に触ったりなんてできない。壊したり傷をつけたりしても、私には弁償不可能だ。

「仕事が忙しいんじゃないんですか」
「ええ。ですが早めに君に確認しておきたいことだったので。ある程度目処はつけてきたので、時間は気にしなくて大丈夫ですよ」

 私にとっては、時間に制限がある方がうれしいのだけれど。一秒でも早く、この男と別れたい。

「それで、その確認しておきたいことって?」
「一つ目は、君のアルバイトのシフトです。それがわかっていれば、私の方も予定が立てやすい」

 本来ならば私が、忙しいこの男に合わせるべきなのだろう。けれどこの男は私を信用していない。何かと理由をつけて、私が誘いを断るとでも思っているのだろう。実際私はそうするかもしれない。
 バイトのシフトだけでもわかっていれば、少なくともこれを理由にすることはできなくなるし、ある程度私の行動を把握しておくこともできる。ある意味監視されているようなものだ。
 スケジュール管理までこの男にされるなんて。

「シフトの変更があれば、その都度メールで連絡してください。電話には出られないことが多いと思うので」
「……わかりました」

 完全に逃げ道を絶たれたような気がした。普段の私は、大学へ行くか、バイトへ行くか、千世や陽斗と一緒にいるか。ほぼ同じ行動しか取らない。友達と出かけるなんて月に一度あるかないか。
 と、そこまで考えて、自分はなんてさみしい人間なんだと落ち込んだ。もう考えないようにしよう。

「二つ目ですが……」

 言いよどんだ男をじっと見つめてしまった。これまでこの男がこんな風にためらいを見せたことがなかったため、少し新鮮だったからだ。
 何の話かと興味がわいたけれど、男が発した言葉を聞いた瞬間にその興味は失せ、いやな記憶がよみがえってきた。

 騒ぎ立てるマスコミ、亡くなった患者の遺族がテレビを通じて私たちに投げつけた言葉、周囲の視線、無責任なことを書いて事実を歪ませるネットの住人たち。
 病院側は、すべての責任を父になすりつけるような発表をした。他の医師が危険だと止めたにもかかわらず、父はこれがもっとも適当な方法だと言い、誰の意見も聞かなかったという。父とともにオペを行なった医師や看護師が皆同じ証言をしている、とも。
 私には、私たちには、どうすることもできなかった。どうしようもなかった。真実も知らず、証拠もなかったのだ。あるのは父を信じる気持ちだけ。
 「自分の非を認めているならば父は絶対に逃げない」という、父に対する絶対的な信頼だけだった。

「君のお父さんは、自殺した泉崎徹氏ですね?」

 あれからもうすぐ三年。私はいまだに、世間で事実とされていることに納得できていない。
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