花夜子



「どこで誰が見ているかわからないのですから、せめてその怒ったような表情はやめていただけないでしょうか」
「怒ってるんだからしかたないでしょ。ずっと笑ってたら、それこそ不自然よ」
「ずっと笑っていろなどとは言っていないでしょう」

 ホテルからバイト先までは車で30分ほど。その間黙ってじっと我慢しようと思っていたのに、この男はしきりに私に話しかけてくる。初めは仕方なく答えていたけれど、この男が私の気分を害するようなことばかり言ってくるものだから、口を開くのも嫌になってしまった。恋人として振舞うために必要な情報はお互い教え合っているのだから、わざわざこの男の相手をする必要もない。
 すると男は私との会話を諦めたのか、一人で勝手に話し始めた。

「先ほどの部屋は、私が仕事用に借りている部屋です。会社で仕事をしていると周りの人間がうるさいですから、時々一人でゆっくり考えたくなる。そういう時に使っています。なかなかいいですよ。誰にも邪魔されずに仕事ができますし、あのホテルは料理もおいしい」

 そんなこと、私には関係ない。あのホテルにはちょっと興味があるけれど、この男の感想にはまったく興味なんてないのだ。それにこの男が使っているあの部屋は、おそらくスウィートルーム。そんな部屋になんて、一生縁もないだろう。父のような医者になれば、そんなこともないのかもしれないけれど。
 しばらく何の興味も反応も示さずにいると、男も話すのをやめた。沈黙している方が気が楽だなんて、初めての体験だわ。

 もう少しでバイト先に到着しようという時、男が唐突に口を開いた。

「一人にだけ、本当のことを話してもかまわないでしょうか」

 ふざけないで。誰にも言わないって約束したはずでしょ。
 口にはしなかったけれど、強い思いで睨んだ私をちらりと見やると、男は苦笑した。

「協力者はいた方がいいでしょう。口の堅い、信用できる人物ですから、周囲に漏れることもない。もちろん君のお姉さんにも」

 その人物が樋口さんであると聞き、しばらく考えてから、短く承諾の返事をした。たしかに私たちの他にも事情を知っている人がいれば、何かと便利だ。樋口さんはいい人そうだし、愚痴なんかも聞いてもらえるかもしれない。
 普段なら、千世や陽斗に話している。でも、今回のことは絶対、二人には話せない。そうなると、気軽に愚痴をこぼせる人なんていなくなってしまうから、ストレスが溜まってしまうに違いないのだ。
 これが本当の恋なら、誰にも言えない秘密の恋愛だ。気持ちも盛り上がるし、いわゆる「燃えるような恋」になったかもしれない。けれど現実は偽者の恋愛。お互い気持ちなんてない上に、二人の間には深い溝がある。この先私たちが歩み寄ることなんて、天と地がひっくり返ったってありえない。

「ところで一つ聞いてもいいでしょうか? なぜ君のお姉さんにまで秘密にする必要があるんですか?」
「そんなのわかってるでしょ」
「わかりませんねえ。理由として思いつくことは、昨日君に否定されたばかりですし」
「否定?」
「勘違いするな、と言ったでしょう」

 そういえばそうだった。この男が、千世が自分に好意を寄せていると言ったのを、私は全力で否定したのだ。それが真実であったから、よけいにムキになって。
 あれが嘘だということをわかっていながらこんなことを聞いてくるんだから、この男は本当に性格が悪い。

 そのあとも無言の時間がやってきたけれど、それほど長くはなく、私を乗せた高級車は私のバイト先に到着した。小野宮珠樹はさっと運転席から降りると、私がシートベルトをはずすのに苦戦する間に助手席側に回り、ドアを開けた。
 自分でドアくらい開けられる、と睨みつけると、女性をエスコートするのは男として当然でしょう、とまるで私がおかしなことを言っているように返される。ばかにされているみたいでなんだかムカつく。
 そりゃあ、こんなふうに扱われるのは女としてうれしいことだと思う。ただこんなこと、外国では普通かもしれないけど、日本では一般的じゃない。
 だから目立つのだ。しかもこの男は美形だし、嫌でも周囲の視線を集める。秘密であるといいながらこんな注目されるようなことをしていたら、すぐにばれてしまうじゃないか。ここは私のバイト先なんだし、私のことを知っている人が多いのだから、噂が立てばすぐに広まる。
 そんなことにも思い至らないこいつは、ばかなの? そう思いながら見上げた男は、なぜか不審げに私を見ていた。考えを読まれたのだろうか。

「人を殴る時はあんなに素早いのに、なぜ普段の行動はこうもゆっくりなんでしょうね」

 失礼ね! 殴ったんじゃなくて叩いたのよ! 人を暴力女みたいに言うなんて、デリカシーのない男。たしかに叩くのだって暴力に違いはないけど、でも「殴る」よりは可愛げがあるじゃない。
 それに今の「ゆっくり」という言葉にはいい意味なんて込められていなかった。「のろま」と同義だと私は受け取ったわ。この車のシートベルトが意味不明なだけなのに! 普段の私を知らないくせに、わかったような口を利かないでほしい。もっとテキパキ動けるわよ!

「では、私は仕事に戻ります。アルバイト、頑張ってくださいね」

 この男、わざわざ仕事を抜け出してまで私に会いに来たというの。
 そういえば昨日、千世が会社に電話した時は、忙しくて面会する時間はないと言われたことを思い出す。こうして私に会いに来る暇があるなら、それは忙しいとは言えないのではないだろうか。
 それとも、今日の脅迫めいた「お誘い」が、仕事よりも大事なことだったということか。女性関係で苦労しているにしても、仕事よりそれに関する用事を優先するなんて、ずいぶん切羽詰まっているのね。
 たしかに顔はいいし、一流企業の専務だし、あんな車に乗っているくらいだからお金持ちなんだろう。性格の悪さを除けば完璧な男。結婚すればいい暮らしができる。あの男が隣にいれば自慢できるだろうし、周りの女の人が放っておくはずはない。
 でも。

「あいつは、敵なのよ!」

 あんな男のことを考えるのは時間の無駄にしかならない。
 握りしめていたこぶしを解いて、私は大きく深呼吸をした。



 バイトが終わり家に帰ると、突然携帯が鳴りだした。バッグからゆっくりと取り出し、表示されている名前を確認する。
 相手は千世だった。

「もしもし?」
「やっと出た。バイト長かったの? わたし何回も電話したんだけど、ずっと留守電だったから。今日のことなんだけど――」

 なにか言いたいことがあるらしく、千世はぷりぷりと怒った様子で話し始めた。
 着信があったのは気づいていたけれど、相手を確認するのがいやだったのだ。もし相手が小野宮珠樹だったら。
 振りであっても恋人同士なのだから、お互いの連絡先は知っておかなければならないとあの男に言われ、しぶしぶ携帯の番号を交換したのが昼間拉致された時。番号を交換してからすぐに電話がかかってくると思っていたわけではないけれど、もしかしたらということもある。
 でも、そんなにびくびくすることはなかったのかもしれない。よく考えたら、用もないのに電話がかかってくるはずがないのだ。そんなにすぐに用事ができるはずもないし、第一あの男は忙しい社会人。

「花夜子、聞いてる?」
「聞いてる」

 またあの男のことを考えている自分にイライラしつつ、千世の話に耳を傾ける。どうやら千世は、昼間のことで文句が言いたいらしい。

「花夜子がはるくんにあんなこと言うから、全部話さなきゃいけなくなっちゃったじゃない!」
「話したくないなら陽斗にそう言えばよかったでしょ」
「聞かれたら話しちゃうんだもん!」
「それは私のせいじゃない」
「……そうだけど、花夜子はわたしがこうだって知ってるでしょ? なのに……」
「……そうだね。ごめん」

 聞かれれば千世が話してしまうことは予想できたのに、陽斗には話したくないと千世は言っていたのに、そう仕向けたのは私だ。二人があまりにも仲よさそうにするものだから、一人で勝手に疎外感を感じて、腹を立てて。そして、勝手に千世に嫉妬した。

「でも、いいの。はるくん、思ったより普通だった。からかわれたりするのかと思ったけど」
「そうなの?」
「うん。ちょっとびっくりはしてたけど、あんまり興味ないみたいだった」

 そうじゃない。きっと陽斗はすごく気にしているはずだ。それを千世に気づかれないように、必死に隠しているだけ。
 だって私が陽斗なら、相手に悟られないように、興味のないふりをするから。今の私も、陽斗と同じ境遇にいるからわかる。
 それに、私と陽斗はどこか似ている。以前からそうだ。
 出会った頃は陽斗のいやなところばかり目についた。素直じゃなくて、少し冷めてて、意地っ張りで。時々言葉を交わしてもなんとなくばかにされているようで、いけ好かないやつだ、なんて思っていた。
 けれどなぜか目が離せなくて、しばらく観察していたらある時急に気づいたのだ。私も同じだと。
 そしたら話がしたくなった。興味を持って話をすると、思っていたよりも話しやすくて、ばかにされているように感じたのはあまり表情に変化がないからだとわかった。そのことを陽斗に言うと、お前も同じだ、と。私もとっつきにくいやつだと思われていたらしく、お互い大きな誤解をしていたことを笑った。
 そうして私と陽斗は仲良くなり、いつの間にか千世も加わって、私たちはいつも一緒にいるようになった。男だとか女だとか、そんなことはまったく考えなかった。陽斗は異性ではなく友達。それが当然のように私の中にあり、変わることはないのだと思っていた。
 けれど、陽斗が「異性ではない」と考えた時点で、私にとって陽斗は「異性」になっていたのだ。成長するにしたがって、どんどん「男」になっていく陽斗。そんな陽斗と一緒にいたいと思っていた私は、確実に「女」だった。
 そして私がようやく自分の気持ちに気づいた時、陽斗の心はもうすでに千世のものだった。

「ねえ千世。私、あの人はやめたほうがいいと思う」

 陽斗は、千世と付き合えば幸せになれる。千世を大事にして守ってくれる。そうすれば、千世だって幸せになれる。
 だからといって二人が付き合ってもいいなんて思わない。だって私は陽斗が好きなのだから。千世に渡したくなんてない。
 千世には陽斗以外の男の人を見てほしい。けれど、あの男はだめだ。

「あの人は、千世のことを大切にしてくれない。千世がつらい思いするだけだと思うし、あの人は千世にはつりあわない」

 こうして離れていれば、千世にも陽斗にも幸せになってほしいと思えても、二人を目の前にすると身勝手な自分が邪魔をする。いや、本当は、本心から幸せになってほしいなんて思ってはいないのかもしれない。だから陽斗の気持ちが通じなければいいなんて思うのだ。
 本当に二人の幸せを望むなら、陽斗のことを応援するべきだ。二人が恋人同士になれれば、きっとそれが一番いい。
 けれど私はどこまでも自分のことしか考えられない、自己中心的な人間なのだ。こんな自分が大っ嫌い。

「……どうして、花夜子がそんなこと言うの」
「千世はあの人のこと知らないから」
「じゃあ花夜子は知ってるの?」

 知ってるか知らないかで聞かれれば、もちろん知らない。知りたくもない。
 けれど、千世よりは知っている。それだけはたしかだ。

「千世は人のいいところしか見ようとしない。でもそれじゃだめなの。今のまま、ただあの人の外面だけを見て好きだって言ってるなら、たとえ付き合えたとしてもうまくいかない。あの人の表面だけじゃなくて内側まで知って、それでも好きだって言うなら私は反対しない」

 しばらくの沈黙の後、電話は切れた。
 思ったことをそのまま伝えた。伝えたことは後悔していない。けれど、もう少し別の言い方をすればよかったのではないかとも思う。
 だって、私が他の誰かに陽斗のことを悪く言われるのとは違うのだ。
 私は陽斗をよく知っている。もちろんすべてではないけれど、いいところも悪いところも知っているのだという自信がある。だから迷わず陽斗を好きだと言い切ることができる。
 けれど千世はあの人を知らない。千世もそれはわかっているはずだ。だから私にあんなことを言われれば不安になる。自分の気持ちは本当なのだろうかと。
 自分で自分の気持ちを否定するならまだいい。しかし今のは、私が千世の気持ちを否定したようなものだ。
 手に持ったままの携帯を見た。電話をかけ直すべきだろうか。
 少し考えて、私は結局そのまま何もしないことに決めた。
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