花夜子



 通された先にあったのは、とても広い、リビングのような部屋。大きな液晶テレビにたくさんの本が並んだ書棚、ガラスのテーブルと高級感漂うソファ、床にはふかふかのカーペット。奥の扉は開け放され、ちらりと豪華なベッドがのぞいている。あれはきっとキングサイズね。
 スーツの上着を脱いだ男が私を見た。じっと見つめられて、顔に熱が集中する。顔だけはいい男だからしかたがないけれど、少しドキドキしてしまった。私のばか。

「どうぞ、掛けてください」

 男の視線を避けるようにぷいと顔を背け、ソファに座った。昨日と同じだ。男が向かい側に腰掛ければ、私にとっては時間の無駄とも言える話が始まる。
 ……いや、昨日の話はそうでもなかったのかもしれない。少なくとも、意味はあった。

「先ほどの話ですが」
「嫌です」
「……少しくらい考えてくれてもいいのでは?」
「考える余地もありません。あなたの下で働くなんてまっぴらよ。そういうことなので、もう私にかまわないでください。さようなら」

 ソファの座り心地をたしかめる間もなく立ち上がり、ドアへと足を向けた。そんな私の腕を、男がつかむ。そして次に発せられた言葉はこれまた突拍子もなく、今度は手ではなく足が出そうになった。さすがに下品だと思って自重したけれど、昨日なら確実にこの男の急所を蹴り上げていただろう。
 私をなんだと思ってるの。

「絶対に嫌よ! 失礼にも程があるわ!」
「残念ですが予想通りの反応ですね」
「だったら最初からこんな話しないで!」

 男が言ったこと、それは私をばかにしているとしか思えないものだった。

 ――私の「下」ではなく、私の「隣」ではどうでしょう。部下ではなく恋人、もちろん契約ですから気持ちはいりませんし、君が望むのであればそれなりの報酬もお支払いします。

 つまりこの男が考えているのは、私を女除けにしようということ。私が部下になれば一番都合がいいが、それがだめそうなのでせめて恋人のふりをしろ、と言っているのだ。
 昨日の千世への態度から考えても、この男が自分に好意を寄せる女をうっとうしく思っていることがうかがえる。こういう話を私にするくらいだから、特定の女性もいないのだろう。
 だからって、昨日会ったばかりの、何も知らないと言っていい相手にこんなことを頼む? それに「望めば報酬は支払うから」だなんて、私を見下してるとしか思えない。

「君には受け入れてもらわなければ困る。どうしても嫌だというなら、こちらにも考えがあります」
「考えってなによ」
「君のお姉さん――千世さんの入社はお断りさせていただく」

 開いた口がふさがらなかった。私が承諾しなければ千世の入社を拒否するなんて、自分のためなら他人はどうでもいいと言っているようなものだ。立派な大人の発言とは思えない。
 本当に、最低な男。もし昨日に戻れたら、絶対、千世の頼みを聞いて会社について行ったりしないのに。この男と出会わなければ、今こんなことにもなっていないはずだ。

「私を脅してるの?」
「そんなつもりはありませんが」
「そもそも内定を取り消すなんて問題よ」
「まだ正式な契約は交わしていません。内々定の段階ですし、法的に問題はありませんよ。公になれば会社の信用問題にはなるでしょうが、それも一時的なものです」

 たとえそんなことがあったとしても、会社にとってはほぼ何の不利益もないということだろうか。周囲からの信用を失っても、それをすぐに回復する自信があると。
 ハッタリかとも思ったが、どうやらこの男は本気だ。だとすると、私がこの男の要求を受けなかった場合、千世だけが大きな損害を被ることになる。
 こちらは受けても受けなくてもメリットがない。一方この男には困ることがほぼないどころか、私が受ければそれが自分の思い通りの結果になる。悔しいけれど、立場と力に差がありすぎる。
 千世の内定は、この男の独断で決まったようなもの。他の面接官たちは、千世のおどおどした態度を見て反対したらしい。けれど、この男は千世を有能だと判断した。教育すれば会社にとって役立つ存在になるだろうと。だから手放すのは惜しいが、そうしたところでたいした損失にはならない。代わりはいるということだ。
 会社の人事はほとんどこの男に任せられているため、社長も口出しはしない。もともと千世の合格に反対していた人事部の社員は、この男が提案すればそれに乗るだろう。

「卑怯よ」
「君にどう思われようとかまわない」

 冷たく言い放つこの男は、きっと自分以外の人間に興味なんてないのだ。それなりの権力を与えられたからこうなったのか――いや、もともとこんな人間だったのかもしれない。
 なぜこんなことになったのか、どうして私が巻き込まれなければならないのか。今日ほど自分の運の悪さを呪ったことはない。

「……私は、なにをすればいいの」

 私は、千世が誰かのせいで嫌な思いをするのは許せない。それが私であっても。私が、こんなつまらない男のつまらない頼みを断ることで千世が泣くようなことになれば、私は今よりも自分を嫌いになる。
 千世は私の大切な姉だ。時々どうしようもなく憎らしく思うこともあるけれど、それでも私は千世を必要としている。だって千世はたった一人、私を家族として愛してくれる存在なのだ。

「君はただ、私の恋人として、恋人らしく振舞ってくれればいい」
「それがどういうことかって聞いてるの」
「君は男性とお付き合いしたことがないんですか?」
「あるわよ! ただ普通の男とあなたとじゃ違うでしょって言ってるんじゃない!」

 付き合っていた彼とは、つい最近別れた。どうしても、その彼を本気で好きになることができなかった。やっぱり私は陽斗が好き。
 それにきっと、相手もそれほど本気じゃなかった。今までだってそうだ。最初はやさしく接してくれていても、深い関係になるとそればかり求めてくる。何度か断っていると、そのうち連絡をよこさなくなって終わり。
 私がそれなりの気持ちしか持っていないから、相手も同程度の気持ちでしか接してこないのだ。

「普通でかまいませんよ。今までの方と同じと思っていただければ」

 とはいえ、普通の恋愛経験なんてないに等しい私には、その「普通」がわからない。今回だって、普通じゃない。
 けれどある意味、今までの男より気が楽な部分もある。無理に好きになる必要がないのだから。それ以前の部分に大きな問題はあるのだけれど、この際それは無視しなければならない。そもそも初めから、私の気持ちなんてまったく関係ないのだ。

「私に付き合ってる人がいたらどうするつもりだったんですか」
「もしそういう方がいるのであれば、その方には事情を説明しておけばいいでしょう。まあ、気分は悪いでしょうが、我慢していただくしかなかったでしょうね」
「本当に自分勝手ですね。それに、どうしてそこまで私にこだわるんですか」
「君は私に好意を持っていない。むしろ嫌っている。おそらくこれからもそうでしょう。だからです」

 自分を好きな人や自分に媚びる人ではだめだということか。たしかにそれでは意味がない。この男が求めているのはあくまでも、気持ちを持たずに恋人の「ふり」をしてくれる人間なのだから。



「君を私の部下にしたいと言ったのは、君を優秀と認めたからです。そこは誤解しないでいただきたい。君は私に対して真正面からぶつかってきた。後先考えないところは多少危険ではありますが、勇気もある。私の意見にうなずくばかりでなく、首を振る人間も必要なのは事実です」

 再びソファに腰掛けて、男はゆっくりと話す。昨日のたったあれだけのことで、ここまで自信を持って私のことを話せるなんて。私だって、自分についてよくわかっていない部分も多いのに。
 ただ、私が「優秀だ」というところには、素直にうなずくことができないけれど。

「君はもっと自分に自信を持ったほうがいい。せっかくいいものを持っているのに、それを埋もれさせていてはもったいないですよ」
「あなたに言われても嬉しくない」
「そうですか」

 人前では恋人のように振舞うことを約束した。お互いのことは名前で呼び合い、恋人らしくデートもする。
 その代わり、千世にはこのことを言わない。周りの人間には、私の情報は一切話さない。
 期限は半年。ただし、この男が偽りの恋人を必要としなくなれば、その時点で契約終了。この男が誰かに私のことを話してもそこで終わりだ。
 報酬なんて望まない。私は、ただ千世が幸せであればそれでいい。

「さあ、話は終わりましたし、アルバイト先まで送りましょう。間に合いますか?」
「いいって言ったでしょ」
「私たちは恋人ですよ」

 すでに恋人としての時間は始まっているらしい。私の肩を抱く大きな手に不快感を覚え、その手を振り払いたいという衝動を必死に抑えながら、男とともにホテルを出た。
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