花夜子



 目の前の男、小野宮珠樹は、本性を知らなければうっかり惚れてしまいそうな、ものすごくやわらかな笑顔で私を見下ろしている。身長差があるから仕方がないことだけれど、見下ろされるというのは気分がよくない。いくら相手に敵意や悪意がなくても、いくら笑顔を向けられていても、目の前にいるのがこの男なら不快になるのは当然だ。
 そもそも、この男がここにいる理由がわからない。春休み中で学生も少ないこの大学に、何の用事があるというのだ。もしかして、医学部かどこかの教授とか事務の人に会う約束でもあるのだろうか。

「どうしてあなたがここにいるんですか」
「個人的な用で君に会いに」
「は? 個人的な用があるなら私にじゃなくて千世にでしょ?」
「いいえ、君です」

 わけがわからない。個人的な用ってなによ。まさか、昨日のことで文句でも言いに来たわけ? わざわざ大学まで自分から出向いて?
 でも、待って。なんかいろいろおかしくない?

「どうして私がここの学生だって知ってるんですか」
「樋口から聞きました。ああ、樋口というのは」
「知ってます。どうして樋口さんが知ってるんですか」
「泉崎さん――君のお姉さんが話してくれたみたいですね。同じ大学、同じ学部に通っていると」

 そういうことか。千世の履歴書を見れば、千世がどこの大学に通っているかはわかる。それにしても、樋口さんって人は良さそうだけど口が軽いのね。プライバシーも何もあったもんじゃない。
 ぼそぼそと文句を言うと、小野宮珠樹はそれを否定した。仕事にどうしても必要なことでなければ、個人情報なので話せないと言う樋口さんに、この男が無理やり話させたそうだ。

「樋口は頭が固すぎるんです。来年からうちの社員になる方のご家族のことくらい、すぐに教えてくれてもいいと思うんですが。電話番号や自宅の住所を聞いたわけでもないのに」
「あなたのその考えの方がおかしいと思います」
「そうですか? 君もご友人とこういった話はするでしょう。誰がどこの大学に進学しているだとか、どこの企業に就職するだとか」
「あなたと私では同じ内容でも重みが違います」

 私のようなただの大学生と大企業の偉い人では、影響度が違う。付き合いの幅が広いこの男が不用意に口にすれば、たちまち世間に知れ渡ってしまうのだから。まあ、私がどこの大学に通っているかなんて誰も興味がないだろうし、だから困ったことも特に起こらないと思うけれど。

「ところで、今春休み中なんですけど。なんで私が学校に来てるってわかったんですか」
「ああ、そういえばそうですね。すっかり忘れていましたよ。君に会えたのは運がよかったということですね」
「本当に偶然ですか?」
「それ以外に何があると?」

 まさか私が君の後をつけていたとでも言いたいんですか、と言って小野宮珠樹は笑う。そこまでしたとはさすがに思わないけれど、偶然にしては、私に会いたかったという相手にとって都合がよすぎる展開だ。春休み中なのに私が大学に来ていて、しかもこの広いキャンパスの中でたまたまぶつかるなんて。
 たとえ春休み中でなくても、連絡でも取り合って待ち合わせをしていない限り、目的の人物に会うことなんて難しいというのに。私は本当に運が悪い。

「それで、私に用って何ですか」
「私は君に興味がある」

 せっかく不快感全開の顔で睨みつけていたのに、その顔も緊張とともに緩んでしまった。おそらくとても間抜けな顔になっているはずだ。小野宮珠樹が噴き出した瞬間に慌てて元に戻したけれど、この男は私に遠慮もせずに声を上げて笑い続けている。
 なによ。いくらおもしろかったからって、そんなに笑うことないじゃない。涙まで浮かべて笑われたら、私だって恥ずかしくなる。
 私が顔を真っ赤にしてうつむくと、小野宮珠樹の笑い声が止んだ。私の頭の上で、短く息を吐く音のあとに咳払いが一つ。

「失礼。いえ、申し訳ない。予想外の反応だったものですから」
「当然です。意味がわからない」
「わかりませんか? そのまま素直に捉えていただいてけっこうですよ」

 素直に捉える? 興味があるということは、つまりどういう形であれ私に好意があるということだ。それをそのまま素直に受け取れと?
 そんなことできるわけがない。だって私なら、初対面でいきなり自分を引っ叩いた相手に好意なんて持てないから。それにきっと、相手の顔を思い出すだけで腹が立つはずだ。自分から相手に会いに行こうという気になるなんて、どうかしてるとしか思えない。
 この男性格が悪そうだし、昨日のことを根に持っていて私をだますつもりなんだ。絶対そうに決まっている。

「どうやら信用していただけないようですね」
「あなたには信用できる要素が皆無なので」
「そうでしょうか。自分で言うことでもないですが、私は部下からの信頼も厚いですよ」
「私はあなたの部下じゃない」
「たしかに。ですから君を私の部下にと誘いにきたわけです」

 この男が言うことは、いちいち突拍子がない。まじめな顔で冗談みたいなことを言うから、返答に困る。
 もし本気で言っていることなら、いくら相手がこの男でも、軽く流してしまうのは失礼だと思う。けれど、もしこの男が私をからかっているだけなら、まじめに答えればきっと笑われる。そうしたら、ムカついてまた手が出てしまうかもしれない。
 昨日のことを思い出し、男の頬に目をやった。まだ完全には赤みが引いていない。
 初対面でいきなり叩かれても、どんなに失礼な態度を取られても、この男はしっかりと私に向き合った。あんなことをされたら、多くの人は頭にきて怒鳴りつけるか、相手にせず無視するかのどちらかの行動を取ると思う。
 小野宮珠樹は多少の怒りは見せたものの、冷静さを失わず、最後まで私を対等な立場の人間として扱った。自分の言いたいことを言っただけのようにも思えるけれど、納得できる部分もあったし、どういう理由があったにしても私の要求を受け入れたことも事実だ。
 小野宮珠樹は、頭がいい男なのだと思う。そんな男が、ただの女子大生相手に仕返しをするために、いつまでも執着するような幼稚なことをするだろうか。

「……お断りします」

 しばらく考えた末、この件に関しては小野宮珠樹を信用することにした私は、はっきりとそう答えた。たとえ仕事上の付き合いだけだとしても、たとえ小野宮珠樹が信頼できて頼もしい上司であるとしても、この男の下で働くなんて絶対にいやだ。

「もうどこかの企業から内定が出ているんですか?」
「いいえ。でも、行きたいところがあるんです」
「それはどこですか?」
「あなたに言う必要はありません」

 小野宮珠樹は腕組みをして数秒考えた後、昨日と同じようにいきなり私の手首をつかんで歩き出した。振りほどこうとしても無駄、放せと言っても無駄。何をしても無駄だった。
 そのまま私がつれて行かれた先にあったのは、青いフェラーリ。助手席に無理やり押し込まれて文句を言おうと思ったら、バタンとドアが閉められた。その後すぐに運転席に小野宮珠樹が乗り込むと、車は勢いよく発進した。

「ちょっと!」
「シートベルトは締めてくださいね」
「どういうつもりよ!」
「落ち着いて話ができる場所に移動しようかと」

 身勝手にも程がある。部下に信頼されているというのが真実なら、その部下の人たちはこの男がわがままで自己中心的なやつだということを知らないんだ。

「降ろして。私このあとバイトがあるんです」
「何時から?」
「一時間後」
「本当は?」
「本当です」
「嘘でしょう」

 なんなのこの男! 何の根拠があって私の言うことを嘘だと決め付けてるわけ? たしかに私は嘘をついているけど、それは私だけが知っていることだ。この男が嘘かどうかを知り得るはずがない。もし私が本当のことを言っているなら、この男の発言は失礼すぎる。
 そりゃあ、嘘をついて逃げようとする私も失礼かもしれないけど、この男が私を無理やりどこかにつれて行こうとするのが悪いんだから。

「誘拐されたって、警察に通報しますよ」
「大ごとにしたいならどうぞご自由に」

 この余裕な感じがまたムカつく。私が本気じゃないことをわかっている。
 だって分が悪いもの。一流企業の専務で、表面的には紳士なこの男と、その男に反抗して困らせるばかりのただの女子大生。どちらが説得力のある話ができるか、どちらがより信頼できるか。そんなの誰に聞いたって答えは同じだ。
 この男のために、被害妄想の激しい嘘つき女だなんて思われたくはない。

「本当のことを言ってくれれば、その時間までには話を終わらせます。もちろん、アルバイト先までは送りますよ」
「……三時間後です。でも送ってくれなくてけっこうです。あなたにバイト先を知られたくないし」
「頑固ですねえ」

 そこからはお互いに沈黙。どちらも何も話さなかった。
 しばらく窓の外に目をやったまま、何も考えずにぼーっとしていると、運転席の方から「もうすぐですよ」と声が聞こえた。正直、目的地なんてどうでもいい。私は早くこの男から解放されたい。
 と、思っていたのに。男が何のためらいもなく車を進める先にあるものを見て、私は思わず息を呑んだ。そこは世界的にも有名な超高級ホテル。もちろん私は宿泊したことも、中に入ったことすらない。
 呆ける私を乗せたまま車は駐車場に停車し、運転席から降りた男が助手席のドアを開ける。

「降りてください」
「ここで、なにを……」
「言ったでしょう。落ち着いて話ができる場所に移動すると」

 まさか、こんな場所につれて来られるなんて。どこかその辺の喫茶店くらいかと思ってたのに。
 ぼけっとしたまま動かない私に痺れを切らしたのか、小野宮珠樹は私の肩を少し強い力で掴んだ。
 こんな高級ホテル入りたくない。小野宮珠樹には似合っても、私には全然似合わない。周りの人に笑われそうだ。でも降りないと、この男は絶対私を解放してくれないだろう。
 私はしぶしぶ車を降りた。ゆっくりと歩き出した男の後についてホテルに入ると、フロントの人が全員そろって深々とお辞儀をする。なんだか異様な雰囲気だ。普通の客に対するものとは違う気がする。
 エレベーターに乗り込んで、男が押したボタンは最上階を示す数字のもの。ぐんぐんと上昇するエレベーターは、途中で止まることなく目的の階についた。
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