花夜子



 会社を出て、千世と並んで歩きながら考えていた。自分は悪くないと言っていた男が、なぜ千世に謝罪し、ハンカチを受け取る気になったのだろうか。
 私がそうしろと訴えたから? ……まさか。樋口さんにプレッシャーをかけられたからでしょ。でも、樋口さんが言うより先に、千世と話そうとしていた。あの男の言動を考えると、私みたいな生意気な女の言うことでも素直に聞き入れるほど、大人のようにも思えなかったのに。

「ねえ、花夜子。ありがとう」
「え?」
「わたしのために怒ってくれて、ありがとう」

 隣を歩く千世は、ずっと黙ったままだった。だからてっきり私の軽はずみな行動を怒っているのかと思っていた。いくらムカついたからといっても、あんなふうに引っ叩いていい相手ではなかったのだ。だってあの男は千世の内定先の専務。千世本人がしたわけではなくても、千世の印象が悪くなるのは当たり前だ。千世だって、せっかく行くと決めた会社なのに、あんなことがあれば気まずくて入社をためらってしまうはず。なのに、お礼を言われるなんて。

「最初は怒ってたよ。もうわたしここには入社できないって思った。でも、花夜子があんなことしたのはわたしのためだもん。それに、悪いのはわたしだから。昔からそうだよね。わたし、間が悪いの」
「でもあの人も悪いよ」
「だから謝ってくれた。あんなふうに言われた時はちょっとこわかったけど、機嫌が悪かったからなんだよね。誰にだってそういう時はあるし。でもやっぱりやさしい人だった」

 違うよ千世。あいつはやさしくなんかない。あれはにせもの。本当のあいつは、乱暴で自分勝手で冷たいやつなんだから。
 そう言おうと口を開きかけたところで、千世が急に立ち止まった。

「それより花夜子、ごめんね」
「なにが?」
「怒られたんでしょ? やさしい人でも、いきなり叩かれたら怒ると思う。わたしもついて行って謝らないといけなかったけど、突然のことでちょっと混乱してて……」

 千世はなんだかいろいろと勘違いしているようだ。その勘違いをどこから訂正しようか考えていると、不思議そうに名前を呼ばれた。

「どうしたの?」
「うーん、あのさあ」
「なに?」
「……やっぱりいい。なんでもない」

 今本当のことを全部話しても、千世はきっと、そんなことあるはずないと笑って流すだろう。絶対的な「やさしくていい人」を、言葉だけで「最悪なやつ」だと言っても、信じるはずがない。それどころか、千世にとっては根拠のない悪口を言う私の方が印象が悪くなる。千世は、私があの男に怒られたことに腹を立てて、あの男のことを悪く言っているんだと思うかもしれない。
 千世には幸せになってほしい。諦めさせるなら早いほうがいいけれど、今である必要はない。

「ねえ、花夜子」
「なに?」
「今日花夜子のとこ泊まってもいい?」

 私は父が死んですぐに一人暮らしを始めた。千世は母親と一緒に、私の父の家で暮らしている。父の家であるにもかかわらず私があの家を出たのは、千世の母親がいたから。父のいないあの家で、私と彼女がうまくやっていけるはずがない。父がいた頃でさえそうだったのだ。もちろん、父と千世の前では仲の良いふりをしていた。でもそれも、お互いに限界だった。そして、父の妻である彼女よりも、大学に進学した私が家を出て行くほうが自然でもあった。

「葵さんにだめって言われるんじゃない?」
「うーん、どうかなあ?」

 葵さん――千世の母親は、千世の一人暮らしを許さなかった。私が家を出ると言った時、千世も一人暮らしをしたいと訴えた。葵さんは、私の一人暮らしにはあっさり賛成してくれたけれど、千世の一人暮らしには大反対。自分ひとりではほとんど何もできない千世に一人暮らしは無理だ、というのが理由だ。千世は納得できないと怒り、葵さんと大喧嘩になった。
 たしかに千世には一人暮らしは向いていないかもしれない。でもそれは実際にやってみないとわからないことだし、家から大学に通うのは少し不便でもあったので、葵さんがなぜあそこまで反対したのかは私にもよくわからない。
 最終的に千世は私と一緒に暮らすと言ったけれど、それも却下された。きっと私に迷惑がかかるから、と。本当の理由は、私と千世をあまり一緒にいさせたくないからではないかと、私は思っている。
 なぜなら、これまで千世が私のところに泊まりたいと言っても、あの人が許してくれたことは一度もなかったから。千世は友達も多い方ではなく、他の誰かの家に泊まりに行くと言い出すこともなかったから、本当のところはわからない。ただ単に外泊をさせたくないだけかもしれないけれど。

「あ、でも今日は当直だって言ってた。黙ってればわからないよ」
「だめだって。ちゃんと了解とっておかないと」
「花夜子ってまじめ」
「なに言ってるの。ばれた時怒られるのは千世一人じゃないんだからね」

 でもすべて、父が生きていれば許されたことかもしれない。今までも千世と葵さんが対立したことは何度かあったけれど、父が許せば葵さんもしぶしぶではあるが納得していた。
 たとえば大学進学の時。千世が志望した大学、学部は、私と同じだった。葵さんは、私には好きなようにしていいと言ったのに、千世には同じようには言わなかった。何もかも私と同じにするのではなく、せめて学部くらいは違うところにしなさいと、そう言ったのだ。父が、したいと言うことをさせるべきだ、もう子どもじゃないんだから、と言うと、葵さんは静かに涙を流しながら部屋を出て行き、父がその後を追った。しばらくして戻ってきた時には、二人の意見は一致していた。

「あーあ、就職したら、認めてくれるかなあ」
「一人暮らし?」
「うん」

 なんでそんなに一人暮らししたいの? と問うと、だって大人って感じで格好いいから、という答えが返ってきた。お金だってかかるし、そんなに簡単なものでもないのに。憧れるのはわかるけれど、親元で暮らすことの方がはるかに楽だ。特に葵さんは、毎日忙しいのに家事をほとんど一人でこなすから、千世なんて本当に気楽に生活している。

「大学生なんて人生で一番暇で楽しい時なんだから、家事くらいやってあげればいいのよ。千世はバイトもしてないんだし」
「花夜子は偉いよね。バイト掛け持ちしてがんばってる」
「高い授業料払ってもらってるんだから、生活費までお世話になるわけにはいかないでしょ」
「耳が痛い」
「だから助けてあげなさいって言ってるの」
「わかってるよう。甘えすぎだって思ってるもん。でも逆に、花夜子は甘えなさすぎだと思うけどなー。もしかして遠慮してる?」

 たしかに遠慮はしている。千世もそう思うくらいだから、よほどよそよそしいのだろう。いまだに「お母さん」ではなく「葵さん」と呼んでいるし、何か困ることがあっても決して相談なんてしない。
 千世には悪いけれど、おそらくこれからも本当の意味で仲良くなることはできないと思う。溝は相当に深い。完全に埋めてなくしてしまうなんて不可能だ。でも千世はそれをわかっていないし、これからもそれに気付くことはないだろう。いや、気付かなくてもいいし、気付かない方がいいのだ。

「いいから、一応電話して聞いてみたら? 泊まってもいいかって」
「やっぱり聞かないとだめ?」
「だめ。許可もらわないと泊めてあげない」
「……わかった」

 千世は携帯を取り出していくつかボタンを押し、耳に当てた。話しながら歩く千世のペースに合わせてゆっくりと歩く。春に向かう冷たい風が、腰まで伸ばした私の髪をなびかせると、隣から千世の短いため息が聞こえた。
 どうやら返事は予想通りのものだったようだ。

「いっぱい話したいことがあるのに」
「あの人のこと? だったら私聞きたくない」
「聞いてよー」
「そんなに何回も会ってるわけじゃないのに、話すことなんてないでしょ?」
「あるの! 樋口さんと木下さんに聞いた」

 樋口さんは、あの男に呼び出されて一緒に会社を出て行った、あの親切そうな男の人。木下さんは、たしかあの受付の女の人だ。そういえば千世は、私があの部屋から出た時樋口さんと話をしていた。私があの男と部屋にいる間、木下さんとも少しだけ話をしたようだ。

「そうだ、じゃあ花夜子がうちに来ればいいんだよ」
「いや」
「お願い。誰かに話したいの」
「じゃあ他の誰かに話してよ」
「恥ずかしいから、はるくんには言えない」
「陽斗に話せなんて言ってないでしょ」
「だってなんでも全部話せて、それを全部聞いてくれるのって花夜子かはるくんしかいないもん」

 友達はいても、そこまで深い付き合いをしない千世だ。当然といえば当然。
 そういう私も、人のことは言えないけれど。
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