花夜子



 そういえば、小学生の時にもこんなことがあった。千世に向かって暴言を吐いた男の子の頬を、私は思いっきり引っ叩いたのだ。男の子は泣くし、千世も泣くし、私も泣いた。感情が高ぶってつい手が出てしまった自分が悔しくて。赤くなった男の子の頬が、自分の手よりも痛そうで。悪いことをしたんだと思った次の瞬間には、大声で男の子に謝りながら泣いていた。
 成長して、ずいぶん冷静さが身についてきたとは思っていたけれど、いまだに千世や父、陽斗のことをばかにされるとカッと頭に血が上るのがわかる。それでも手をあげることはなかったのに、今回はとうとうやってしまった。おそらく男の視線と声の調子が癪に障ったのだ。千世のことを下種な女とでも言いたげなものだった。実際さっきの言葉は、そういう意味を持たせて発していた気がする。
 千世や受付の人、中年男性含め、周囲にいた人たちがぽかんとこちらを見つめる中、目の前の男は一瞬だけ怒りの表情を見せたがすぐにそれを引っ込め、ひどく落ち着いた声で言った。

「どなたかは存じませんが、何か気に障ることでも?」

 じんじんとした手の痛みとともに落ち着きかけていた私の心は、この一言で再び波立った。
 最悪な男だ。わかっているくせに。

「気に障りまくりよ! 千世がわざわざ洗濯して、きれいにアイロンかけて、ここまで足を運んだのよ! あなたに、ハンカチ一枚を返すためだけに!」
「私はそんなことをしてほしいと頼んだ覚えはありません。それに、そこまでしてやっていると言いたいようですが、物を借りている身としては、むしろそれは当然のことでは?」
「そっ、そうだけど、それでも、受け取るくらいはしなさいよ! なにがもう使う気になれない、勘違いされると困る、よ! そっちこそ勘違いしてんじゃないわよ!」

 どこまでも冷静な相手と、押されている自分。どちらにも苛立ちが増し、顔に熱が集中する。
 こんな言いがかりをつけるようなことをしたいんじゃない。この男に、千世に対して言ったあのひどい言葉を撤回して、謝ってほしいだけだ。なのに、怒りが邪魔をしてうまく伝えられない。

「礼儀も常識も知らないおぼっちゃまなら、仕方ないことかもしれないけど」

 おまけに負け惜しみのような言葉まで出てしまった。後に引けないところまで、自分で自分を追いつめている。ばかな自分に呆れながらも男から目をそらさずにいると、男の表情が次第に変化していくのがわかった。冷たい印象を与える無表情から、苛立ちを抑えているような表情へ。そしてついには、先ほどちらっと見せたものよりもいくぶんか激しい怒りを露わにした。
 今さら気付いたけど、この男、ものすごい美形だ。美形が怒ると、こんなに恐いのか。無表情も少し恐かったけど。男の雰囲気に圧倒されて、額に汗が滲んだ。できれば目をそらしたいけれど、そうすると負けたような気がしてなんだかいやだ。
 数秒間にらみ合った後、男がいきなり私の手首をつかんで歩き出した。突然のことで何が起こっているのかわからず、私は男に引きずられるようにして歩く。受付の人や、誰か知らないけどたった今エレベーターから降りてきた男の人が大声でこの男を呼んでいるのに、こいつは返事もしない。
 少し歩いて、エスカレーター横の奥まったところにあるドアの前で、男は歩みを止めた。背の高い男を見上げると、その顔は冷たい無表情に戻っている。男はドアを開け、私を部屋の中に突き飛ばした。その勢いで前向きに倒れ、「ぎゃっ」という変な声が出てしまう。なんてことをするんだ。乱暴にも程がある。
 床に座ったまま男を睨み上げると、男は不気味な笑みを浮かべてじっと私を見下ろしていた。なんだか、身の危険を感じる。

「な、なによ! 何する気?」
「礼儀も常識も知らないのはどちらかを、教えてあげようと思いまして」

 男は靴音を響かせて私に近付き、私の腕を取って立ち上がらせた。私はほとんど力を入れなかったのに、あまりにも軽々と立たされてしまって驚いていると、男は部屋の中央にあるソファを指し示し、私に座るように促した。拒否しようと思っても無理だ。なぜなら男が私の腕を放してくれないから。しかたがないので、私はおとなしく男に従った。私がソファに座ると、男は向かい側にある革張りの立派な椅子にゆっくりと腰掛けた。

「まず、初対面の相手の頬をいきなり引っ叩くというのは礼儀知らずな行動なのではないですか?」
「そ、そうだけど、でも、あなたが悪いんじゃない! 千世に言った言葉、取り消してよ!」
「それに、敬語も使わない。常識がないというのは君みたいな人のことを言うんですよ」
「ちょっと、人の話聞いてるの?」
「君こそ、人の話を聞いているんですか?」

 やっと会話ができたと思ったら、聞いたことを聞き返されただけだった。私はちゃんと話を聞いている。だって答えたじゃない。この男は私の言ったことを無視して、自分の話したいことだけを話している。そんなやつが、「人の話を聞いているのか」だなんて。赤くなっている男の頬を少しだけ気にしていたけど、もう気にするのをやめることにした。

「人の話を聞くというのは、ただ相手の言葉に対して答えることじゃない。言葉を受け止めることです。君は、自分の過ちを指摘され、それを認めたふりをして責任を私に押し付けているだけだ。それは話を聞いているとは言えない。君が私の話をきちんと聞く気があるなら、私も君の話を聞きましょう」

 言い返すことができなかった。ムカついたけれど、たしかにそうかもしれない、とも思ったからだ。男の言っていることは正しい。ただ、「お前が言うことを聞けば俺も聞いてやる」というような態度には納得できない。それにこの男、言葉は丁寧なのに、言っていることはほぼ自己中心的。信用できないというか、胡散臭いというか。でも、反抗してばかりではらちが明かない。この男は絶対に折れないだろうし。ここは私が大人になってあげよう。

「……わかりました。私が悪かったです。無礼なことをして、申し訳ありませんでした」
「まあ、いいでしょう」

 その言い方にまたカチンときて、思わずギロリと男を睨んでしまった。男の鋭い目つきを見て、すぐに目をそらしたけれど。

「それで、君の話というのは?」
「さっき言いました」
「彼女に言った言葉を取り消せ、ということですか?」
「そうです」

 男は少しの間黙って考えているようだった。何を考える必要があるのかと、つい言いそうになってしまったが、そうするとまた何かムカつくことを言われそうだったのでやめた。足を組んであごに手をやり、目をつぶって考え込む男をじっと見つめる。美形って、何をしても絵になるのね。腹の立つ男だけど、見惚れるくらい格好いいのは認めるわ。
 そんなことを考えていると、男は静かに目を開けて私を見た。

「やはり私に非があるとは思えませんね」
「はぁ?」

 こいつ、何を言っているの? 何をどう考えたら、自分に非がないなんて答えにたどりつくわけ?

「君は勘違いだと言いましたが、彼女が私に好意を寄せているのは見ていればわかります。なのであのように言いました。私が、彼女に少しでも気があるなどと思われないように。後々面倒ですから」
「面倒って……あなたなんなの!? 何様のつもりよ!」
「やはり君は私の話を聞く気がないようですね」
「あったけどなくしたのよ! あなたのせいよ!」
「また私のせいですか」

 やれやれというように首を振る男の仕草が、私の怒りをさらにかき立てた。どこまで自分勝手な男なの。
 もしこれが私に謝れという要求なら、拒否したくなるのもわかる。大企業の専務が、こんな反抗的なただの女子大生に頭を下げるなんてしたくないだろうから。でもそうじゃない。私は、もう少し千世に気をつかって言葉をかけてほしいだけだ。
 勘違いされたっていいじゃない。迷惑ならきっぱり断ればいいだけの話なんだから。そうすれば千世は諦める。面倒なことにはならない。だって千世はやさしい子だもの。少しずれてはいるけれど、人の気持ちを一番に考えて行動できる、やさしい子だもの。

「はあ……泣かせるほどのことは言っていないつもりですが」

 言いたいことはたくさんあるのに、言葉が詰まって出てこない。その代わりに、涙が溢れてとまらなくなった。悔しくて泣くなんて初めてだ。

「困りましたね。ここでハンカチを差し出しても、君は受け取ってくれないでしょうし」

 この男は、感謝を込めて借りた物を返そうとしても、その気持ちとともにつき返し、さらには捨てろとまで言う男だ。そんなやつに物を借りたくなんてないと思うのは当然のこと。それに、この男に借りなくても、ハンカチなら持っているし。
 少し落ち着くとそのことに思い至り、バッグからハンカチを取り出して涙を拭いた。男は苦笑しながら私を見ている。なんだか、千世の時と似ている気がする。状況や心情はまったく違うけれど。

「ハンカチ、受け取ってあげてください。迷惑かもしれないけど、でも、千世はあなたの心遣いがうれしかったんだと思うんです。その気持ちを伝えるために今日ここに来たのに、受け取ってもらえないどころか捨ててもかまわないって言われるなんて。自分のことだけじゃなくて、少しは千世の気持ちも考えてあげてください」

 情けないことに、声が震えてしまった。怒りや悔しさでいっぱいになって泣いてしまった子どもな自分と、ずっと冷静に話を続ける大人な男。比べると恥ずかしくなってしまい、もう男を見ることもできない。何か言うべきか、このまま黙っていようか。しばらくうつむいたまま考えていると、向かい側に座る男が動く気配がした。思わず顔を上げると、男はすっと私のそばに寄り、微笑んだ。

「行きましょうか」

 わけがわからずぽかんと見上げる私に、男は手を差し出す。

「行きますよ。そろそろ戻らないと。お互いに人を待たせていますからね」

 そうだった。千世のことでこの男と話をしていたのに、肝心の千世本人を置き去りにしてきたことをすっかり忘れてしまっていた。
 差し出された手を無視して勢いよく立ち上がり、ドアの方へ向かう。うしろからは男の靴音。
 そもそもこの男が無理矢理私をここにつれて来たのに、まるで私が千世を待たせているみたいに言うのには腹が立つ。私もこの男につっかかって時間を使ってしまってはいたけれど、その原因もこの男だ。これ以上この自分勝手な男との無駄な話に時間を費やしたくはないし、男はどうやら私の話を無視することに決めたようだし、もうここにいることに意味はない。
 ドアを開けようとノブに手をのばしかけた時、男はすばやく私の前に移動してドアを開けた。とっさに口から出そうになった礼の言葉を飲み込み、涙の残る目でちらりと男を見やる。「どうぞ」という言葉には従った。
 千世は受付カウンターのそばで、男の人と話をしていた。私たちがあの部屋に入る前、エレベーターから降りてきた人だ。その人がこちらに気付き、「専務!」と声を上げた。千世もその声につられて私たちを見る。

「何をしていたんです? 至急の用件があって私を呼び出したんでしょう!」
「君を呼んだわけじゃない。誰でもいいと言ったんだ」
「それでも、呼んでおいて待たせるというのはどういうことですか! 私も暇ではないんです!」
「樋口、君は本当にうるさい男だな。なぜ木下は君を呼んだりしたんだ」

 樋口と呼ばれた男の人は、ちょうど来客対応中の受付の女の人を見た。

「こういう場合は誰が専務のお守りをするべきか、誰が一番適任かをわかっているからでしょう」
「上司に対して言う言葉とは思えないな」
「これくらいは言わせていただかないと。こちらはいつも専務のわがままに振り回されているわけですから」
「人聞きの悪い」
「本当のことでしょう」

 上司にこんな態度を取るなんて、怖いもの知らずな人だ。と思ったけれど、初対面の人にあんな態度を取った私も似たようなものかもしれない。
 千世は話をしている男二人を交互に見て、まるで会話を目で追っているようだった。そしてその二人がほぼ同時に千世に目を向けると、びくっと肩をすくめて固まる。

「もう少し時間をもらいたい」
「ええ、どうぞ。事情は木下さんから聞いています。まず何をするべきかはわかっていますね? わからないというのなら教えてさしあげますが」

 樋口さんにそう言われた男は何か言いたそうな顔をしたが、樋口さんの咳払いを聞くと、すぐに人の良さそうな胡散臭い笑みを顔にはりつけて千世に向き直った。千世はうっすらと頬を染める。
 あんなことを言われてまだ懲りていないのかと思ったけれど、この男の顔で、うそ臭いとはいえ笑顔を向けられたら、こうなってしまうのが普通かもしれない。

「先ほどは申し訳ありませんでした。言い訳にすぎませんが、面倒なことがあって私も少し気が立っていたもので」
「い、いいえ、わたしが悪かったんです。何にも考えてなくて……」
「あなたは悪くありませんよ。ハンカチ、どうもありがとうございました」

 男が手を差し出すと、千世はためらいながらも男の手にハンカチを置いた。それをジャケットの内ポケットにしまいこんだ男が樋口さんに声をかけると、樋口さんはうなずき、私たちに会釈をしてエレベーターの方へ歩いて行った。

「それでは、私はこれから用があるので、失礼します」

 男が向かう先では、エレベーターの扉を押さえて樋口さんが待っている。二人の姿がエレベーターの中に消えた後、私と千世は互いに顔を見合わせて息を吐いた。
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