花夜子



 千世に好きな男ができた。それは私にとって願ってもないことだったけれど、内定をもらったことと何の関係があるのだろうか。話を聞くと、その相手というのは千世の内定先企業で、千世の面接を担当した社員のうちの一人だという。見た感じではまだ30にも届いていないような若い男で、千世の面接の際にはただ静かに成り行きを見守っているだけだったそうだ。
 千世は同じ時間帯に面接を受けるグループの中では順番が一番最後だった。泣きながら面接室を後にし、荷物を取って控え室を出たところで緊張の糸が切れて立っていられなくなり、そのまま廊下に座り込んで泣き続けていた。そこにやって来たのが例の男だ。千世と目線を合わせるようにして床に膝をつき、ハンカチを差し出してきた。そして笑顔で一言、「お疲れ様でした。最終面接に進んでください」と。千世は男の言った言葉の意味がわからず、涙でぐちゃぐちゃになった顔で男を見つめた。男は困ったように笑う。

「本来ならばこのようなことはあまりないのですが、今回は私の独断で決めました。あなたはとても素直で前向きな方のようだ。今日の面接のことは、どうぞ一晩ゆっくり休んできれいさっぱり忘れてください。そして明日の最終面接は笑顔で、社長のおしゃべりに付き合ってあげてくださいね」

 そう言って、男はその場を去った。千世は男に渡されたハンカチを握りしめたまま、しばらく放心状態で動くことができなかった。翌日、きれいさっぱりとまではいかないが、前日の面接の嫌な記憶をほとんど頭から追い出してしまった千世は、男に言われた通り笑顔で社長面接に臨んだ。社長も笑顔を絶やさず、深みのある声でゆっくりと話し、面接は和やかな雰囲気に終始したそうだ。
 そこまで聞いた私には、千世の話の中に少し気になる点があった。

「ねえ、独断で千世の面接通過を決めたってことは、その人ただの社員じゃないよね?」

 千世は、うーんと少し考える素振りを見せた後、専務って言ってた気がする、と答えた。その予想もしなかった言葉に、私は目を丸くする。

「専務!? だって千世、30歳にもなってないくらいだって言ってたじゃない!」
「そうだよ。20代後半だと思う」

 千世は何でもなさそうに言う。超がつくほどの大企業で、まだ20代にもかかわらず専務という肩書きを持っているなんて、ただ者じゃない。それを千世はわかっているのだろうか。わかっていてこの反応というのも少しおかしいし、就活をしている身でわからないなんてことなら、それはそれで問題だ。そうは思うけれど、千世のことだから、と妙に納得してしまっている自分もいる。
 それにしても、今まで誰にもなびかなかった千世が、たったそれだけのことで恋に落ちてしまうなんて。さぞかし魅力的な男なのだろう。私情もあるが、千世にはその男と幸せになってほしい。もちろんその男が千世を大切にしてくれるいい男であればの話だけれど。

「それでね、花夜子にちょっとお願いしたいことがあるの」

 千世はバッグから男物のハンカチを取り出し、私に見せた。丁寧にアイロンがけされているそれは、おそらく千世が例の男に渡されたというものだろう。

「これ、返しそびれちゃって。最終面接の時は会えなかったから。返しに行きたいんだけど、花夜子、会社まで一緒に行ってくれない?」

 たぶん私は今、思いっきり嫌そうな顔をしているんだろう。千世が苦笑している。けれど嫌なのだからしょうがない。そんなの一人で返しに行けばいいのに。なぜ私が、見ず知らずの男にハンカチを返しに行くために、縁もゆかりもない会社にわざわざ足を運ばなければならないのか。そりゃあ、多少その男に興味はあるけれど。何と言っても千世が好きになった男だ。
 けれど会社に行ったところで簡単に会うことなどできるのだろうか。常識的に考えると、アポなしではまず会えない。まして相手は専務だ。無理のような気がする。それを千世に伝えると、あからさまに「しまった」というような顔をした。

「考えてなかった」
「もうそれ、抜けてるとかそういうレベルじゃない。相手の都合も聞かないでいきなり押しかけるなんて、何考えてるんだって思われるよ」

 しかも来年の春からそこの社員として働こうという人間が。これでは採用したのが間違いだったなどと思われてしまう。とりあえず会ってもらえるかどうかの確認だけでもした方がいいと、私は千世に、会社に電話をするよう促した。千世が「電話嫌い」とぼやいたので、私は千世から携帯を取り上げ、電話帳に登録されている会社の番号を呼び出して発信ボタンを押した。携帯を千世に差し出すと、千世はしぶしぶ受け取り耳に当てる。電話が繋がった瞬間はすぐにわかった。
 千世は姿勢を正して顔をこわばらせ、上ずった声で話している。携帯を持つ手は異常なほど震えており、電話一本でそこまで緊張するかと思わずつっこみたくなるほどだ。顔の見えない相手に対して大きく首を縦に振りながら返事をし、最後は礼を言いながら深々と頭を下げて電話を切った。
 じっと見つめる私に向かい、千世は「だめだった」とため息まじりに呟く。どうやら専務は外出中で、今日は会社に戻る予定がないそうだ。明日以降も業務が立て込んでおり、いつ面会できるかわからない。当然と言えば当然の結果だが、せっかく口実があるのに会えないというのは、やはり多少のショックがあるように見える。

「だったら仕方ないね。会社の人に預けて渡してもらったら?」
「うん……」

 あまりの落ち込み様に思わず笑ってしまう。千世がむっとした顔になったので謝ると、会社について行かないと許さないと言われた。例の男に会うわけではなくても、会社に一人で行くのは気が引けるようだ。働き始めたら嫌でも一人で行かなければならなくなるのに。
 千世に言わせると、どうやらそういう問題ではないらしい。千世は自分があの大きな会社には不釣合いで、場違いな気がして正面玄関前に立つことすら恥ずかしいと思っているようだ。けれど私が一緒なら、受付の人に話しかけるくらいの勇気は出る気がするのだとか。今がこの状態なのだから、試験で会社を訪れた時の千世は死にそうだったに違いない。
 とりあえず私は、千世のよくわからない理論に付き合って、会社について行くことにした。



 首が痛くなるほど見上げなければ、すべてが視界に入りきらないほど高いビルの前に、私は千世と二人で立っていた。たしかにこのビルに入っていくのは少し勇気がいるかもしれない。スーツを着て堂々とこのビルの中に入っていく姿を想像すると、千世でさえ格好よく思えてしまう。
 こんな大きな自社ビルを持つほどの企業に、千世は内定をもらったのか。しかも専務に気に入られて。
 その専務が言うように、千世は素直で前向きな子だと思う。単純で軽率とも言えるけれど、そんなふうにマイナスに捉えられることが決してないのは、ある意味千世の才能だ。

「花夜子、先に行って」
「なんでよ。千世が用があるのに。本当なら、私行く必要なんてないんだからね」

 こういう臆病なところさえなければ、完璧と言っていい。けれどこんな一面があるからこそ、そばにいて守りたいと思うのかもしれない。私にも女らしさとか可愛げとか、そんなものがあれば、あるいは。
 千世にはわからないように、小さく息を吐いた。こうしてすぐに悪い方向に考えてしまうのが、数多くある私の短所の一つだ。長所なんて一つも思いつかないのに、短所ばかりが目立つなんて、最悪。

「花夜子」

 千世に腕を引かれて歩を進める。私の方こそこんな大きなビルに入るのは気が進まない。内定をもらっている千世とは違って、私はこの会社とは何の関係もないのだから。
 けれど千世は、そんな私のことなどおかまいなしに、半ば私を押し込むようにしてエントランスをくぐった。
 大きなオフィスビルの1階と2階部分はガラス張りで開放感があり、コンビニや飲食店など、ここで働く人たちのランチ場所や休憩スペースとしても便利な造りになっている。3階以上がオフィスとして使われているため、受付も3階にあるのだとか。千世は筆記試験で初めてここを訪れた時、試験会場の掲示に気付かずしばらく迷い、やっとたどり着いた受付で場所を聞いたという経緯から、受付の場所はしっかりと覚えていた。

「あ、あの、わたし、泉崎千世と申します。以前面接の時に、専務にハンカチを、お借りして、そ、それでそれを返しにあの……」

 言っている途中で自分でも何を言っているのかわからなくなったようで、千世は口を閉じてしまった。けれど受付の人には伝わったようで、「申し訳ありませんが、小野宮はただいま外出しております」という返事が戻ってきた。専務の苗字は小野宮というのか。面接の時に名乗ったらしいが、千世は覚えていなかったため、私にとっては新しい情報だ。
 ところで「小野宮」と言えば、この会社も「オノミヤメディカル」だ。社長の苗字も「小野宮」。まさか小野宮専務って、社長の息子とかだったりするのだろうか。ファミリービジネスとか。それならば、若くして専務というポストを与えられているのも納得できる。だからといって、能力のないダメなやつでないことはたしかだ。それなりに仕事が出来る人間でなければ、会社のためにもそんな重要なポストは与えない。社長がよほどのアホでなければの話ではあるけれど。

「あ、えっと……さ、先ほどお電話させていただいて、外出されてるというのは、うかがってます。今日はお戻りにならないということも。なので、その、このハンカチを預かっていただいて、専務に返していただけないかと思いまして……」

 ハンカチを差し出した千世に向かい、受付の人は困ったように笑う。そして少しの間の後、「かしこまりました」と言って手を差し出したその時、男の焦ったような、悲愴感漂う高い声がロビーに響き渡った。

「申し訳ありません! 申し訳ありません! 二度とこのようなことがないようにいたします!」

 声のする方を見ると、髪が薄く背の低い中年男性が、眼鏡をかけた背の高い若い男にぺこぺこと頭を下げながら、必死に縋っている様子が目に入った。若い男はいかにも機嫌が悪そうで、中年男性を完全無視している。なんだかおかしな構図だ。二人の立場が逆ならば、違和感はないのだけれど。
 固まる私と千世の横で、若い男は受付カウンターにとん、と手を置いた。

「予定が変わった。誰でもいいから一人、上から呼んでくれ」

 受付の人は返事をしてすぐに受話器を取った。それを見た若い男は中年男性に向かって一言、「君はもう不要だ」と言い放つ。ひっ、と短い声を発して顔を引きつらせた中年男性は、顔を真っ赤にしてうなだれた。
 そんな中年男性をぼけっと見つめていた私のすぐ近くで、思いもよらない人物が声を上げる。

「こ、こんにちは。先日はご迷惑おかけしました。これ、お借りしていたハンカチです」

 千世だ。空気が読めないのは知っていたけれど、ここまでだとは思わなかった。今この状況なら、遠慮するのが普通なんじゃないの?
 この若い男が小野宮専務か、などと暢気に考えている暇もないほど空気が張り詰める。千世の真っ赤な顔とは対照的に、私の顔は血の気が引いて真っ青になっていることだろう。

「ああ、こんにちは、泉崎千世さん」

 名前をフルネームで覚えていたことに驚くとともに、男の穏やかな微笑に少しだけ気が緩んだのも束の間のことだった。

「それは捨てていただいてかまいませんよ。もう使う気になれませんし、勘違いされても困るので」

 すっと無表情になった男は千世に冷たい視線を投げ、そう言った。言葉の意味を考える前に、その声音で、千世への侮辱を感じ取る。
 自分でも驚くほど素早く動いた手は、乾いた音を響かせ、鈍い痛みと熱を持った。実際の動きとは違い、目に映る映像はまるでスローモーションのようだ。
 私の数多くある短所の一つ。図らずも、今また新たに認識してしまった。
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