花夜子



 憂鬱なデートの日がやってきた。仮病でも使おうかと思ったけれど、小野宮珠樹は私の嘘を簡単に見破ってしまいそうなのでやめておいた。嘘がばれたら、あとでぐちぐち文句を言われるに決まっている。
 いろんな意味の緊張で朝はいつもより早く目が覚めた。ゆっくり朝食をとって準備を始める。
 今日着る服は昨日の夜選んでおいた。あいつの隣に並んでも恥ずかしくないようにと思い鏡の前でひたすら悩んでいたら、2時間もかかってしまった。
 ドットが刺しゅうされた、ピンクのニットワンピース。シンプルだけれど、袖口や襟のフリルが可愛くて気に入っている。センスのいい千世が、私によく似合うと選んでくれたものだ。
 言っておくが、これはあいつのためじゃない。変な服を着て行けばあいつはきっと私をばかにして笑うだろうし、なにより私自身がみじめだ。顔だけはいい男の横を、パッとしない女が歩いているなんて、いい笑いものだ。
 せめて自分に似合う服を着て、きれいにお化粧もして、最高の状態で臨みたい。
 約束の時間が近づき、忘れ物がないかを確認していると、突然携帯が鳴りだした。見るとメールが1通。

『今、アパートの前にいる』

 いつか聞いた怪談を思い出した。少女が人形を捨てた夜、電話がかかってくるというあれだ。電話をかけるたびに、電話の主はだんだん少女の住む家に近づいていることを知らせ、最後は「今、あなたのうしろにいるの」という言葉で終わる。
 もし現実にそんなことがあるなら、相手の声が聞こえないメールの方が、私にとっては恐怖だ。
 今度は「玄関の前にいる」なんてメールが届くんじゃないだろうか、などと半笑いで考えながらバッグを持って玄関に行きブーツを履いていると、突然インターホンが鳴った。
 タイミングが悪すぎる。今考えていたことのせいで、心臓はバクバクだ。昼間なのに怖い。
 おそるおそるドアスコープを除くと、腕を組んで偉そうに立つ小野宮珠樹が見えた。深呼吸をしてゆっくりドアを開けると「遅い」と一言。

「あのねえ、ここ4階。あなたの方がおかしい。エレベーターなんてないのに、なんでこんなに速くここまで来れるわけ?」
「速くはないだろう。普通だ」
「ああ、あんな階段どうってことないですよね。足が長いですもんね」
「行くぞ」

 当然といった表情で流されてしまった。ムカつく。
 心の中で文句を言いながら階段を下りていると、踊り場でいきなり立ち止まった小野宮珠樹がくるりと私の方を振り返った。心の声が聞こえたのだろうかとありえないことを一瞬だけ考えて、私も立ち止まる。
 小野宮珠樹は、そんな私を数秒見つめてにやりと笑った。

「そんなに今日のデートが楽しみだったのか?」
「……は?」

 冗談はやめてほしい。本気で思っていたとしても、少し考えればそんなことはありえないとわかるはずだ。だって私は小野宮珠樹のことが嫌いだし、こいつだってそれは知っている。むしろ私は今日が来なければいいと思っていたし、今だって胃がきりきりと痛んでいるというのに。
 そんな私の憂鬱に、こいつは気づいていないのだろうか。というか、小野宮珠樹は憂鬱だとか面倒だとか思わないわけ?

「ずいぶんと気合が入っているように見える」
「そりゃあ気合も入るわよ。これから我慢の時間が始まるんだから」
「我慢、か」
「そうよ。それにあなたのためじゃなくて、これは私のためだから。恥をかきたくないの」
「なるほど。しかし、どうやら俺のためにもなっているようだ」
「どういうことよ」
「妙な格好で隣を歩かれたら、俺だって恥をかく」
「うるさい! とにかく、本当にあなたのためじゃないからね!」
「わかっている。だが、似合っているよ。可愛い」

 一気に顔に熱が集中した。自分でもわかる。今私の顔は、きっと真っ赤になっている。
 別に、今の言葉がうれしかったわけじゃない。ただあまり言われたことのない言葉だったから、免疫のない私には刺激が強すぎたのだ。
 それに加えて、小野宮珠樹の笑顔。営業用だとわかっているのに。顔がいいというのは、こういう時に便利だ。

「じ、冗談はやめて」

 やっと言えた一言は、自分でも情けなくなるほど震えていた。こいつには負けたくないのに。
 固まって動かない――というよりも動けない私の手を取り、「冗談じゃない」と小野宮珠樹は笑った。そしてそのまま私の手を引いて歩き出す。小野宮珠樹につられて、私もようやく足を動かした。
 アパートの前に停められている車の前に来ると、小野宮珠樹はやはり、当然のように助手席のドアを開けた。一応お礼を言って車に乗り込む。小野宮珠樹が運転席に座ったところで、今日行きたいところを尋ねられた。

「……考えてなかった」

 いろいろと考えていたら面倒になってきて、結局「明日考えよう」となってそのままだった。昨日はどんな服を着ようとかどういう髪型にしようとかそんなことで頭がいっぱいだったし、今日は朝起きてから今まで気分が重くてそれどころじゃなかった。
 私の返事を聞いて、案の定小野宮珠樹は大きくため息をつく。
 そんなふうにされたら、私が悪いみたいじゃない。行き先を考えておけという言葉に私は同意していないし、そもそも私一人に押し付けるのがいけないんだから。
 ふいと顔を背けて窓の外に視線を移し、気分を害したことを訴えた。

「やれやれ、本当に君は扱いにくい」
「それはどうも」
「君が行き先を考えていないのなら、俺が決めてしまっても問題ないな?」

 ちょっと待って、と言ったところで小野宮珠樹は聞かないだろう。どうしよう、小野宮珠樹がデートで行く場所なんて想像もできない。想像ができないとかなり怖い。
 どこかいい場所はないかと、私も頭をフル回転させて考えた。が、そうしたところでこの男に敵うはずもなく、目的地を定めたらしい小野宮珠樹は静かにアクセルを踏み込んだ。
 行き先を聞いて、行きたくないと言ったって、聞いてもらえるはずがない。君が決められなかったからだ、なんて言われてしまうに決まっている。
 朝からの胃痛に加え、頭まで痛くなってきた。もう帰りたい。



「着いたぞ」

 ひたすら無言で「話したくありませんオーラ」を漂わせ、寝たふりをすること約30分。なるようになれと、半ば投げやりな気持ちでゆっくり目を開けると、やはり私は想像もしていなかった場所にいた。

「水族館……?」

 想像はしていなかったけれど、それは小野宮珠樹と水族館が結びつかなかっただけの話だ。けれど千世や陽斗と行くなら、十分に想像できる場所。
 しかもここは、私が小さい頃父とよく来たところだ。
 千世と葵さんがうちに来る前、仕事が忙しくてなかなか一緒に過ごせないからと、一日休めそうな日はよくここにつれて来てくれていた。一日中顔を合わせないことも珍しくなく、いつもベビーシッターが家に来るか24時間保育園に預けられていたため、私は父と一緒にいられることがうれしくて仕方がなかった。
 二人で手をつないでゆっくり館内を回り、大好きなウミガメがいる水槽の前ではしばらく立ち止まり、イルカのショーを見るのが決まりで、水族館を出る前にはぬいぐるみやキーホルダーを買ってもらうのが楽しみだった。
 千世たちが来てからはそれまでほど頻繁に来ることもなくなり、私たちが小学校の高学年になる頃にはまったく来なくなっていた。

「館内は薄暗いし、知り合いに見られたとしてもごまかせるだろう。……気に入らないか?」

 昔のことを思い出していたら、表情が暗くなっていたようだ。そのせいで、小野宮珠樹は私が水族館を好きではないと勘違いしているらしい。
 とりあえずそうではないということを伝えて、早く行こうと急かした。
 この憂鬱なデートを早く終わらせたいという思いもある。けれど今は、父との思い出の場所をもう一度ゆっくり歩きたいという思いの方が大きかった。
 先に歩き始めた私にすぐに追いつき、小野宮珠樹は私の手を握る。父とは全然違うけれど、ムカつくことも多いけれど、この人の手は父と同じくらい大きくて温かい。なんとなく落ち着いた気分になったのは、きっとそのせいだ。
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