花夜子



 私は父を尊敬している。だからこそ、医者になろうとは思わなかった。
 そもそも私は千世や陽斗と違って勉強ができる方ではなかったし、たとえ医者になれたとしても、父のようになれなければ、それは私にとって「医者になれた」ことにはならないからだ。
 私にとっての医者は父のような医者なのだ。自分で自分の憧れを壊したくはなかった。

「私の父は泉崎徹です。でもあなたが言ったことは間違ってる。父は自殺したんじゃない」
「なるほど。自殺でないという証拠は?」
「ないわ。でも、自殺したっていう証拠だってない」

 小野宮珠樹は無表情で私を見つめている。
 どうせこの男も周りの人間と同じで、マスコミの報道を信じているのだ。私がばかなことを言っていると思っている。自殺した男の娘となんて関われないと。
 これで契約は破棄。父の自殺は認めないけれど、今はこの男がそう思ってくれていた方が、私にとっては都合がいい。
 そう思っていたから、男が次に発した言葉が予想と違っていたことに動揺してしまったのだ。

「君が自殺でないというなら、やはりそうなのでしょうね」

 冷やかに笑うわけでもなく、呆れたようにため息をつくわけでもなく、男は真剣な表情だ。そして「やはり」という言葉は、この男も私と同じ考えであるということを示していた。

「泉崎徹氏とは面識があります。時間があれば医学の知識を教授していただいたりもしました。彼は誠実な人物です。いくら自分のミスで患者が亡くなったからといって、自分の命で罪を償おうなどとはしないはずだ。そんな無責任なことを、彼がするわけがないんです。君もそう思っているんでしょう?」

 それを聞いて、不覚にも涙がこぼれてしまった。泣くのを我慢することには慣れているはずなのに、この男の前ではどうもうまくいかない。こんなやつに、泣き顔なんて二度と見せたくないと思っていたのに。
 この間は、千世を侮辱されて悔しかったから。けれど今回は悔しいからじゃない。
 素直にうれしかったのだ。この男は嫌なやつだけれど、父を認めてくれている。付き合いの長い近所の人たちでさえ、わかってはくれなかったというのに。

「病院側の発表にも納得がいかない。あれとマスコミの報道のせいで、世間は間違った事実を真実として受け止めてしまっている。君とご家族は、ずいぶんとつらい思いをしたでしょう」

 話しながら、小野宮珠樹は私の隣に移動して座った。うつむいた私の頭を、大きな手が撫でる。
 ムカつく最悪な男だと思っていたはずなのに、少し自分の気持ちを理解されただけで嫌悪感が薄れるなんて、私はなんて単純なんだ。
 触れられるのも嫌だったのに、今は頭を撫でてくれるこの手が心地いい。

「私、本当のことが知りたいんです。自分でたしかめたいんです。たしかめて、それで事実が病院やマスコミの言う通りだったら、私も認めます。だから私は、父が働いていた病院に就職したいって思ったの」
「真実を知るためだけに?」
「そうよ。そんな動機で就職先を選ぶなんてばかだって思われるかもしれないけど、私にとっては重要なことなの」

 父が勤務していた病院に就職できる確率は低いと思っている。普通に採用試験を受けても採用されるかどうかわからない上に、私は「医療事故を起こし、自殺して世間を騒がせた医者」の娘。そして、もし病院側にやましいことがあれば、私はほぼ確実に落とされるはずだ。
 不採用となってしまえば、その理由も不明のまま、真相を調べることもできずに泣き寝入り。
 採用されれば、病院側が正しいことを言っているか、何があっても隠しきれるという自信があるかのどちらか。けれど私が真実を知るチャンスはできる。

「私の誘いを断った理由がわかりました。そこまで強い意志があるなら仕方ありません。うちの会社と君のお父さんが勤務していた大学病院は業務提携しています。私が声をかければ、君は採用されるでしょうが……」
「そんな必要はないわ」
「でしょうね。そう言うと思っていました。普通ならば、君はすんなり採用でしょう。けれど今回はこの問題がある。難しいですよ」

 返事はせずにうなずく。やはりこの男は少々私を買いかぶりすぎているとは思ったが、口にはしなかった。

「私も個人的に調べたいとは思っていたんです。彼のことを人として、医者としても、尊敬していましたから。何か情報があれば君に提供しましょう。君にも、私の都合に付き合っていただいていますし」

 小野宮珠樹が調べて提供してくれる情報ならば、信用できると思っていいはずだ。間違った情報を私に教えることが、この男の利益につながるとは思えない。
 これであの契約が、私にとっても意味のあるものになった。前向きな気持ちで恋人役を演じられる気がする。

「君とは対等な関係でいるべきでしょうね。この面倒な話し方も、もうやめましょう。……俺も、君相手にこれは疲れるからな」

 にやりと笑った男の言いたいことが、なんとなくわかった気がした。これまでのこの男の話し方は、敬語を使って丁寧ではあったけれど、見下されているような感じだった。自分のことを「俺」と言った男からは、そんな雰囲気はまったく感じられない。
 やはり、信用はできる男だ。

「君も、遠慮はしなくていい。今までもそれほど遠慮しているようには見えなかったが」
「第一印象は最悪だったもの。そんな人に遠慮なんて必要ないでしょ」
「なるほど。第一印象は最悪、ということは、今は違うということだな?」
「まあね。今は単なるムカつく男」
「あまり変わらないだろう」
「全然違うわよ」

 瞬きをすると、残っていた涙がこぼれてきた。手でごしごしと目をこすっていると、小野宮珠樹がため息をつきながら私の手首をつかむ。そしてそのまま無言でゆっくりと、私の頬を撫でるように涙をぬぐった。
 数秒見つめあったあと、不意に顔が寄せられる。
 目をつぶった瞬間に唇が重なった。

 これは、契約のキスなのだ。
 私たちの間に恋愛感情なんて存在しない。けれど私たちは恋人同士。そして、協力者。

 千世に対する罪悪感がないわけじゃない。千世の気持ちを知りながら、千世に黙ってこんなことをしていれば、嫌われたって仕方がない。しかも、「あの男はだめ」などと言っておきながら。
 でも、きっとこれは正しい選択だ。私にとっても、千世にとっても。

「化粧が落ちているぞ。みっともない」
「うるさい」
「暗くなってきたな。家まで送ろう」
「住んでるところは教えたくないって言ったでしょ」
「それでもいいかと思っていたが、今後のことを考えると知っておいた方がいい。一人暮らしなら、君の家族に見られる心配もない」

 その心配もないわけではないけれど、私は本当に、ただ教えたくないというだけだ。この男は何が何でも聞き出そうとするだろうからあまり意味はないと思うし、言いはしないけれど。

「それに、その顔では人目のあるところを通っては帰れないだろう。早く教えてくれないか。俺も暇じゃないと言ったはずだ」

 これから先も、この男の強引さに振り回されるかと思うとうんざりする。

「花夜子」
「わかったわよ!」

 契約を結んだときに提示された「お互いのことは名前で呼ぶ」という条件。初めて実行されたそれに若干戸惑いつつ、ここでまた言い合うのも疲れるので、私は仕方なく住所を告げた。
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