花夜子



 千世と私は、血のつながらない姉妹だ。
 私には母親の記憶がない。そんな私が6歳になったばかりの頃、父が知らない女の人をつれて来た。今日からお前のお母さんになる人だ、と。にこりと微笑んだその人を、私はきれいだと思った。けれどどこか冷たいその微笑に、背筋が冷えたことも覚えている。
 千世はその人の子どもだった。偶然にも生まれた年、誕生日までもが同じだった私たちが仲良くなるのに、それほど時間はかからなかった。生まれた時間は千世の方が先。その日から、千世は私の姉になった。事情を知らない人たちは、今でも私たちを本当の双子の姉妹だと思っている。顔が似ていないことを不思議に思っても、それほど気にはしていないようだ。
 父は大学病院に勤める医者だった。そこそこ名の知れた外科医で、患者からの評判も良かったと聞いている。麻酔科医である千世の母親が父の勤務する病院に赴任して来てから、よく同じチームでオペを行なうようになった。 それが二人の交際のきっかけであることは、誰に聞かなくても理解できた。父があの人をつれて来る前、とても優秀な麻酔科医が入って来た、若いのに現場で的確な判断ができ理解力もある、彼女と一緒のオペはやりやすい、と言っていたのを思い出す。もっとも、当時の私はオペの意味も「優秀な麻酔科医」がどんなものかもまったくわかってはいなかったけれど。
 父と千世の母親は、本当に仲の良い夫婦だった。父は私と千世、千世の母親を愛してくれた。けれど千世の母親が愛したのは、千世と、私の父だけ。表面上は慈愛に満ちた母親の表情で私と千世を見る。だから、あの人の悪魔のような顔は、私以外誰も知らない。彼女は私を疎ましく思っている。
 私と千世が大学に入学したばかりの春、父が死んだ。自分が起こした医療事故により、患者を死なせてしまったことを悔いての自殺だとマスコミは報道したが、私はそれがでたらめだとわかっている。父は自分の命で罪を償うなんてことはしない人だ。命を差し出して、何になる。死んでも犯した罪を償えるはずがないことを、父は知っていた。

「花夜子、千世」

 父の葬儀が行なわれた日、悲しみに沈む私たちに、同じく悲しそうに声をかけてきたのは、中学からの長い付き合いである陽斗だった。私たちは、高校、大学と、三人そろって同じ学校に進学した。腐れ縁だ、なんて言ってはいるけれど、実は違う。
 私は陽斗が好きだ。人間として、一人の男として。だから陽斗が受験すると言った高校を受験した。少しでも長く陽斗のそばにいたくて。千世は私と同じ学校に行きたいからという理由だけであっさり第1志望校を変更し、私と陽斗が受験する高校に願書を出した。大学を決めた時も同じ。特に大学受験の時は、私なんて必死に勉強してやっと合格できたのに、陽斗と千世は簡単に受かってしまった。そうして陽斗のそばにいるために努力をしてきたけれど、気持ちはいまだに打ち明けられずにいる。なぜなら陽斗が想いを寄せているのは私ではなく、千世だと知っているから。鈍い千世は陽斗の気持ちに気付いていない。

「大変だったな。急なことで俺も驚いた。二人とも大丈夫か? 俺にできることがあれば何でも言ってくれてかまわないからな」
「はるくん、わたし……」

 目にいっぱいの涙を溜めて、千世は陽斗を見上げた。陽斗が千世の頭を撫でると、千世は堪えきれずに嗚咽を漏らし、うつむいて陽斗の喪服の袖をにぎりしめる。そんな二人を見ているのがつらくて、私はくるりと二人に背を向け、下唇を噛んだ。
 私だって、泣きたい。たった一人の、血のつながった本当の家族を亡くしたのだ。その上私の好きな男が一番に心配しているのは、私ではなく千世。いつだってそうだ。陽斗の一番は、いつだって千世。それなのに千世は陽斗の気持ちに気付かず、こうして陽斗のやさしさに甘える。陽斗のことを男として見たことなんて一度もないくせに。

「花夜子、花夜子ごめんね。わたし何もできなくて……。一番悲しいのは花夜子なのに」

 けれど千世には悪気なんてないのだ。千世は私の気持ちも、陽斗の気持ちも知らないのだから。私を抱きしめてぼろぼろと涙を流す千世の背に、私も腕を回した。その瞬間、我慢していた涙が一粒だけ頬を伝う。とてもあたたかい。素直でかわいい千世。誰からも愛される千世。やさしくて大好きで、けれど世界で一番ねたましい、私の姉。



 父の死から2年半、私たちは大学3回生の秋を迎えていた。キャンパス内は大学祭の準備をする学生たちの浮かれた雰囲気で、普段の倍以上ざわついている。私たちも、就職活動を本格的に始める時期になった。周りの雰囲気のせいもあり、「就活」という単語に少々敏感になっている私と千世を、陽斗は暢気に笑う。

「大変だな、シュウカツ生は」
「うるさいな。あんただって3年半後はヒイヒイ言ってるわよ」
「それなら心配ない。国家試験は1回でパスしてやるよ」

 陽斗は薬剤師になるため、薬学部に在籍し勉強している。高校生の時に職場体験で私の父の勤める病院に行き、そこで薬剤師の仕事を間近で見たことがきっかけだそうだ。医師並みに難しい国家試験を甘く見ているような発言をするのは、それだけ自信があるからだろう。それもそのはず、陽斗は入学してから今までずっと、学部内で首席を通している。

「ねえ、エントリーシートが書けない。花夜子、わたしの長所ってなんだと思う?」
「ええー、天然なところ? 千世って時々異世界の生きものに見える」
「ひどい。それ長所って言えないじゃない。はるくん、助けて。わたしの長所」
「嫌なことがあっても30分寝たら忘れるところ」
「そんなの書いたらばかだって思われちゃうよ」

 私たち三人の関係は、何の変化もなく以前のまま。ただ、高校生の時までと少し違うのは、私と陽斗にそれぞれ恋人ができたことくらい。もちろん二人ともすぐに相手と別れてしまった。だって私も陽斗も、好きな人は別にいるのだから。陽斗はそれ以来彼女を作らない。けれど私は、今付き合っている彼で3人目。その彼との仲も、そろそろ怪しくなってきている。
 千世には恋人ができない。そもそも千世が男に興味を示すこと自体が珍しいのだ。たとえ男に興味を持ったとしても、それが恋愛感情にまで発展することはなかった。陽斗がいい例だ。その上千世は美人でスタイルもいい。けれど人見知りで、仲の良い人以外にはほとんど笑顔を見せないから、周囲の男にとっては近寄り難い、いわゆる「高嶺の花」的な存在なのだろう。千世に言い寄ってくる男を、私は今まで一人も見たことがない。もちろん本当に一人もいなかったわけではないだろうけれど、千世が誰かと付き合っているという話を本人からも、周りの誰からも聞いていないのだから、たぶん千世は申し出をすべて断っている。
 私は、早く千世に恋人ができればと思っている。そうすれば、もしかしたら陽斗は、千世を諦めるかもしれない。自己中心的で浅ましい考えだとは思うけれど、仕方がない。私はそういう人間だ。



 内定をもらったという話を千世から聞いたのは、3月に入ってすぐのことだった。あまりに唐突な報告に私はぽかんとすることしかできず、やっと出てきた言葉が「あ、おめでとう」というなんとも味気ない一言。けれど千世は、このうれしい結果が腑に落ちないようだった。

「わたし、なんで採用されたんだろう。今回は今まで以上にだめだと思ってたのに」

 千世はこれまで就職活動を続けてきて、書類審査や筆記試験で不合格になったことがない。けれど面接に進んだ途端に落ちる。原因は千世もわかっていた。面接やグループディスカッションなど、初めて会う人たちと話をするのは、人見知りの千世にとって最も苦手と言っていいことだ。千世は面接試験の前日から誰が見てもわかるほど元気がなく、当日は緊張のためほとんど何も自分のことを伝えられずに試験を終えて帰って来ていた。
 その千世が、私よりも先に内定を獲得した。しかも、テレビなどで名前をよく耳にする、大手医療機器メーカーの内定だ。千世がどうせだめだと思いながらも履歴書を送ったのは、この企業が実施する試験が筆記試験と2度の個人面接のみだったからだそうだ。しかも最終面接は社長との1対1の面接で、これはもうほぼ意思確認と言っていい程度のものだと大学の就職課から言われたのだとか。受けてみると実際その通りで、社長面接は「うちに来る気がありますか」という質問をされた以外は10分ほどの雑談で終わってしまったらしい。そして採用。
 千世が疑問に思っているのは、社長面接の前の一次面接。今時珍しいほどの圧迫面接で、厳しい質問をされるたびに千世の心は折れ、終いには面接官の前で泣き出してしまった。最後に何か言いたいことはあるかと聞かれて千世がしゃくりあげながら答えたのは、「自分は時々異世界の生きものに見えるような天然ボケ人間らしく、30分寝たら嫌なことも忘れてしまうので、きっとこの面接のことは明日には忘れています」というなんともわけのわからないことだった。混乱状態で、以前私と陽斗に言われたことがつい口から出てしまったらしい。

「まだ卒業まで1年あるけど、でもわたし、ここに行こうって思う。はるくんは薬剤師で、花夜子も医療業界を志望してるでしょ? もう就活続けるの嫌だし、それに……」

 そこで言葉を切った千世の頬は、ほんのりピンク色に染まっている。恥ずかしそうに視線をさまよわせ、長く息を吐いた千世の口から出た言葉は、私が今まで一度も聞いたことがないものだった。

「花夜子、わたし、好きな人ができた」
inserted by FC2 system